いざ一人になって、日々の些事にも惑わされない空白の時間を味わっている時に、期せず思い出す人がいる。それはたぶん、俺にとってその人が必要だからだ。
マデ・テキーラがそうだ。
大袈裟に言えば、いつも心にマデ・テキーラがいる。
こんな時に日頃の無関心で、小学生の何年生は平均的身長が何センチと言えるだけの知識が無いのが残念だが、小人症の彼はどこからどう見ても小学生くらいの子供にしか見えない。尚且つ、大抵の小人症の人は、体は小さいが顔は大人で、話す声だって大人の声なのに対し、マデは全てのサイズが子供のままで、声までが甲高い子供のままで、小人症の大人というより、どこかで成長するのを放棄してしまった、例えるなら「ブリキの太鼓」の男の子の様な神掛かった存在に見えるのだ。年齢は俺の3つくらい下だったので、もう結構なオジサンの筈である。
初めてマデに出会ったのは、バリ島の兄弟、俺の片割れと言って過言でない友人コミンと出会ったのと同じ頃、今から20年ちょっと前になる。コミンの兄が経営するポコ・ロコというメキシコ料理店のスタッフとして、彼はテキーラのミニバーを担当していた。巨大なソンブレロをかぶり、肩からお弁当売りの様に台を下げ、その上にショットグラスを並べて各テーブルを回る。ニコニコしながら元気な声で「ミニバー!」と売りつけられると、その風貌のかわいさに客はついテキーラのショットグラスを買ってしまう。ソンブレロに足が生えてちょこまかと動いている様なファニーな彼は、ポコ・ロコのスターだった。
ある朝、行きつけのレストランで朝食を食っていると、マデが特注の小さなバイクでやってくるのが見えた。マデも俺が分かったらしく、レストランの前でバイクを停め、スラマッパギー!と元気いっぱいの挨拶をした。
「ニシムラー!朝ご飯美味しい?」
彼はヘルメットを脱ぎ、もの凄くニコニコしながら俺のテーブルにやってきた。
「美味しいよ。バリの食べ物は何でも美味しい」
隣の席に座った彼のもとにウエイターがやって来たが、マデは「話すだけ」と断った。「ニシムラー、ボクは今日はポコ・ロコを休むから、今夜は会えないけど、ごめんね」
「それが言いたくて来たの?」
「そう」
「なんで休むのさ?」
「デイオフだから」
ならば一緒に遊ばないか?と誘うと、彼は若干申し訳無さそうに「これから魚を釣りに行くんだ」と答えた。
そうか、残念だな。マデと遊びたかったよ。
「そう?今日はダメだけど、あしたなら大丈夫だよ」
「連休?」
「うん」
「明日、何かして遊ばないか?」
「じゃあさ!じゃあさ!バードパークに行こう!」
かつてマデをからかって、結果としてマデを怒らせてしまった事がある親しい友人から聞いた。マデは嘘が大嫌いで、その友人は些細な冗談が災いし、一ヶ月もの間、口を聞いてもらえなかった。世間擦れした大人なら、ちょっとした嘘などはセ・ラ・ヴィと受け流すのだろうけれど、マデは違う。些細であっても嘘が許せないのは、きっと魂が清いからだと思う。マデの前では本当の事しか言ってはいけない。そして、言った事は責任をもって実行しなければダメなのだ。
バードパークに行く前に、どうしてもブサキ寺院に詣でたかった。彼は「気にするな、どうせ時間はたくさんある」と快諾してくれた。
「昨日、魚釣れた?」
「ううん、釣れなかった」
「一匹も?」
「子供の魚が何匹か釣れたけど、かわいそうだからリリースしたよ」
だから晩御飯のおかずが無くて、おなかが空いたよ、と、おなかが空いたゼスチャーをしながら、助手席から俺を見上げた。
夢の様な光景だろうな、浜辺でマデが竿を振っている姿、小さなマデが水平線に向かって佇んでいる様を想像した。
「おなか空いたなら、ご飯でも食べようか」
「賛成!」
通りッ傍にあるレストランに入って、5000ルピアのナシチャンプルを注文した。マデは小さいから半分しか食べられなかった。
ブサキ寺院の参道に、鳥を売る商売人が居た。マデはその鳥に夢中になって動かなくなった。挙句の果てに「鳥買って」と言う始末。
「どうしても欲しい?」
「うん、欲しい」
お金なら後で払うから、鳥買って。
ブサキの帰り道、俺の車の後部座席は鳥のフンだらけになった。
バードパークに到着すると、彼はとてもはしゃいで、まるでさかなくんみたいに各ゲージの前で俺に鳥の説明をした。バードパークのスタッフから声を掛けられる様子を見ていると、たぶんマデはバードパークの常連なのだ。
次の年、久しぶりにマデに会い「ブサキで買った鳥は元気?」と聞いたら
「死んじゃった」
と、何でもない事の様に、無邪気な笑顔で答えた。