人の心の中は色んな要素があって、表現すべきもの、表現してはいけないもの、玉石混交だ。でも大抵は生身の人付き合いの中、人間関係の中で精査され、ゆっくりと外に向かって伝えられていくものだと思う。
しかし、人間関係の希薄なインターネットの中で、しかも誰が誰だか分からない匿名の状況の中で語られるものには精査という概念が殆ど無い。
だからこそ自分の欲求に貪欲でストレートで、行き着くところを見失いがちなのだ。
俺は自分を特定できる署名をしない限りネット上に精査を欠く表現をするまいと決めた。人それぞれに護らなければならない領域はある。それを踏み越え、いつ誰を傷付けてしまうかなんて俺には分からない。考え方は色々あるだろうが、人はちょっとした言葉に支配されるものと思っている。
汚い、暴力的な言葉を使えば、それは実生活に即、具現化されるだろう。匿名で書き込まれるネット上の犯行予告。そのうちの何%が実行されたのだろうか。そしてそれらは、犯罪であった事すら認識されず、時間に飲み込まれ消えてしまうことだって往々にしてあるじゃないか。インターネットが普及してから何年が経つのか分からないけど、消えていった悲しい事件の数々を、俺はいっぱい目撃してきた。
名前も知らない子犬のプルーは、当時中学三年生の、前髪をぱっつんぱっつんに揃えた田舎の小娘だった。話題には参加しないのにいつまでも退室せず、ライブカム映像を公開して愛くるしい笑顔、どこまでも深い黒い瞳を、俺たちに送信し続けた。
会話を楽しむ、という感じではなかった。何故ニコニコするばかりの映像を送りつづけるのかなんて分からなかったし、そもそも理由が無ければ参加しちゃダメなんて規約も、俺らのチャットルームに限ってはなかったし、まあ厳密に言えばチャット運営サイドには幾つかの禁止事項があったかも知れないが(当時はそんなもの誰も読まなかった)今となっては思い出から推測するしかない。
彼女はほぼ毎日、朝が来るまでチャットに参加した。彼女には普通の中学生としての学業があった筈だが、徹夜のチャット参加を、誰もが当然の事の様に捕らえていた。烏合の衆の如く集まる参加者達の無遠慮なリクエストがあったのだろう、彼らは、プルーが接続していない日にはメッセージを送って参加を促していたのだ。
プルーなら来るよ、誘われれば来る。絶対来る。あいつはネットジャンキーだから来て当然。何処からともなく飛んでくる思い込みの激しい勘違いメッセージに、それでもプルーは従順だった。例えそれが見当違いな内容でも、メッセージは犬笛であり、忠実な子犬のプルーは何をなげうってでも駆けつけなければならなかった。
今時の中学生特有の長い脚、やせっぽちの、しかし捕らえようの無い無垢な美しさを秘めた発展途上のプルーの白い肢体が、柔らかな質感を伴ってブラウザの向こう側のライブ映像にクネクネと動いたのは、物見遊山の参加者達が彼女を煽ったからだ。恥ずかしがりながら命令されるままポーズをとり、脱ぎ、全てを見せる。そんなライブ映像が見れると聞きつければ、どんなに固い男だって即刻見にやって来る。
プルーの公開映像には常時500人が張り付き、今脱ぐか今脱ぐかと手ぐすねを引いて待っていたものだ。500人が一斉にプライベートメッセージを送信した。
名前も知らない子犬のプルーは、俺のプルーではない。誰のプルーでもない。だから、裸を見せたいなら納得するまで見せて良かった。でも、見せる事が原因で自分を傷付けてしまうなら、見せるべきではなかった。
プルーからボイスメッセが飛び込んできたのは、いよいよ夏も本番の8月上旬、たまたま俺も休みで、ネットの友達とバカな話をしていた昼下がりの事だった。 俺は友人達との会話を切断し、プルーと一対一で話した。
中学三年生のプルーは何を飲んだのかへべれけに酔っ払っていて、何を喋っているのかさっぱり理解出来なかったが、ただ「死にたい」と繰り返していたのだけは聞き取れた。
それ以来、プルーを見ることは無くなったが、事情通の話によると彼女は死んでおらず、16歳で結婚してすぐに妊娠し(いや、16歳で妊娠してすぐに結婚したのかも知れない)今では若いお母さんをやっているらしい。
チャットで裸の映像を公開する様な女の子は、きっと純情過ぎるのだ。どうしていいのか分からないから脱いで、喜んでもらうんだ。喜んでくれるなら、わたしを愛してくれるかも知れない。そんな女の子を出会い系の手法で口八丁で騙して食って、コンビニのサンドイッチの包み紙を捨てるみたいに、ポイッと捨てちゃったりしたらダメだよ、そりゃあ泣くだろうし死にたいとか言うだろう。