その後、妻はソファにもたれかかったまま寝てしまった。俺はまだジョン・ケージのDreamというピアノ曲を鑑賞していた。午後になってからもヘビーローテーションで聴いているから、付き合わされる妻もさすがに寝てしまうわけである。
そもそも俺はこの午後、外出したかった。予定も目的も無かったが、せっかくの休日、しかも雲ひとつない快晴で、出歩くにはもってこいの日の筈だった。だが、妻は出たくないと言う。世の中には二つの行動パターンしかない。外出するかしないかである。外に出たくない理由にもいろいろあるだろうが、どんな理由であれ、外出しない事実は変わらない。嬉しい理由でも悲しい理由でも、外出しないのなら、それは外の世界の目新しいものに触れることはない、という事なのだ。日がな部屋着で、ベランダに出てコーヒーを飲みながら、暗くなるまでいつもの景色を見て過ごすなど、もったいないと思う。でも俺は妻の意見に同意した。反対することも出来たが、この裁判で俺が勝訴しても、乗り気でない妻を引き連れて、何処に遊びに行き、何を楽しめるかに自信が無かったのだ。だから、ベランダで美味しいコーヒーを飲みながら好きな音楽を嫌というほど聴いた。
部屋のスピーカーから流れてくるかすかなピアノの音。南の低い空を、東から西へと、ゆっくりとした速度で雲が移動している。その刹那、高校生の頃の一寸した思い出が・・・あれは体育の時間だった、校庭で見上げた秋の空に幾筋もの筋雲の垂直線を見たことや・・・あるいは、暗くなるまで巨大な凧を引っ張った、その後16歳で死んだMの事などの思い出が、俺の脳みそを支配し、数秒の間、俺は激しく酔った。無為は時おり、言い得ぬカタルシスで俺を苦しめる。いや、苦しめるという表現は間違っているかも知れない。胸を締め付けられるが、それは「苦しみ」とはちょっと違う様な気がする。
俺は頭を抱え、自問した。
― 今、俺は何がしたい?
・・・旅か?
旅だ。
― そのために必要なものは?
単車だ。オートバイである。
俺に足りないのはオートバイである。
無目的の、突如始まる旅にはオートバイが必要だ。オートバイさえあれば、俺は背中に羽根をつけたも同然である。
どんなオートバイが必要かって?何でもいい、CB750でもスーパーカブでもいい、いや、むしろスーパーカブがいい。
代官山だろうが鎌倉だろうが、そのあたりの距離など、庭を歩くも同然の近さである。海沿いのカフェでマスター相手に、暗くなるまで適当な作り話をする、それがいい。
オートバイ、旅、バカ話、宴、妖しい光や甘い香り、美しいフォルムが幾重にも蠢いていて、一瞬先もわからない。語り、踊り、歌い、酔い、交じり合い、気絶する。目的は一瞬で達成され、その瞬間、新たな目的が出現する。パーフェクトじゃないか。
妻に起された。どの位寝たのか見当もつかないが、ジョン・ケージのDreamはいつしかビル・エヴァンスのトリオに変わっていた。ベランダの向こう側に広がる景色は、とっくに星空で、その後ろ側のLDKのテーブルには妻の手料理が湯気を上げていた。