石が好きだ。
好きなのでたくさん蒐集している。
とりわけ、宝石の類が大好きだ。
たまに取り出しては石を眺め、にやにやしている。
何故好きかと問われれば、純粋に「綺麗だから」と答える。
大抵の人は綺麗なものが好きだ。
御多分に漏れず、俺だって綺麗なものが好きだ。
だからこそ石を集めるのだが、石に限らず綺麗なものは何でも好きだ。
この「綺麗なものが好き」という感性は人間に限ったものではない。
動物の世界では、我が身を飾って異性の気を引く種があるではないか。
例えば鳥の種類によっては、自分の羽の色を美しくディスプレーするものも居るし、同じ色の物ばかり集める習性を持つものも居る。
ダンスを踊るものもあれば、恋の歌を歌うものもある。
美しさを感じる力とは、本能的なものなのだと思う。
我々人間は、その原始の思想から逸脱し、美の効能を考え出し、美の中に「特殊な力」が宿っている事をイメージした。
人間の歴史の中で、おそらく美は神以前から存在していただろうと思う。
その中から神という思想が生まれたのだと、俺は想像する。
美は人の歴史と共に神格化したのだ。
では何故美しい事が神にも等しい事なのか。
俺はいっぱい考えるけれど、いまだに良く分からない。
美に触れるたび気持ちが良くて、俺は心を丸くする。
何故だかは分からないけれど、それが俺を幸せにしてくれるなら理屈は考えなくてもいいのかもしれない。
美に触れると心が丸くなる。
ならば逆に、心を丸くしてくれる対象は美と考えられる。
それを思うと、美しさとは可視光線や音声や、五感にうったえる感覚に限られた世界ではない事が分かる。
美人、とは、出会う人の心を丸くする能力に長けている人の事を指して言うのだ。
だから、出会った人の心を丸く出来ない、むしろとげとげしくしてしまう人は、素晴らしく整ったフォルムをしていたとしても、美しい顔立ちをしていても、決して美人とは呼べない。
心を丸くする効果のあるものを美と呼ぶのだ。
美はあやふやで一定ではない。
いつもどこかにフラフラして捉えどころが無い。
そこにあったかと思えば消えていく。
我々が美を捕らえる一瞬は大変貴重な体験なのだ。
賞味期限がある。
だから、美味しいフルーツが腐ってしまう前に、畑でフルーツを育てなければ、育て続けなければ、明日 美に触れる機会を失うのだ。
好きなのでたくさん蒐集している。
とりわけ、宝石の類が大好きだ。
たまに取り出しては石を眺め、にやにやしている。
何故好きかと問われれば、純粋に「綺麗だから」と答える。
大抵の人は綺麗なものが好きだ。
御多分に漏れず、俺だって綺麗なものが好きだ。
だからこそ石を集めるのだが、石に限らず綺麗なものは何でも好きだ。
この「綺麗なものが好き」という感性は人間に限ったものではない。
動物の世界では、我が身を飾って異性の気を引く種があるではないか。
例えば鳥の種類によっては、自分の羽の色を美しくディスプレーするものも居るし、同じ色の物ばかり集める習性を持つものも居る。
ダンスを踊るものもあれば、恋の歌を歌うものもある。
美しさを感じる力とは、本能的なものなのだと思う。
我々人間は、その原始の思想から逸脱し、美の効能を考え出し、美の中に「特殊な力」が宿っている事をイメージした。
人間の歴史の中で、おそらく美は神以前から存在していただろうと思う。
その中から神という思想が生まれたのだと、俺は想像する。
美は人の歴史と共に神格化したのだ。
では何故美しい事が神にも等しい事なのか。
俺はいっぱい考えるけれど、いまだに良く分からない。
美に触れるたび気持ちが良くて、俺は心を丸くする。
何故だかは分からないけれど、それが俺を幸せにしてくれるなら理屈は考えなくてもいいのかもしれない。
美に触れると心が丸くなる。
ならば逆に、心を丸くしてくれる対象は美と考えられる。
それを思うと、美しさとは可視光線や音声や、五感にうったえる感覚に限られた世界ではない事が分かる。
美人、とは、出会う人の心を丸くする能力に長けている人の事を指して言うのだ。
だから、出会った人の心を丸く出来ない、むしろとげとげしくしてしまう人は、素晴らしく整ったフォルムをしていたとしても、美しい顔立ちをしていても、決して美人とは呼べない。
心を丸くする効果のあるものを美と呼ぶのだ。
美はあやふやで一定ではない。
いつもどこかにフラフラして捉えどころが無い。
そこにあったかと思えば消えていく。
我々が美を捕らえる一瞬は大変貴重な体験なのだ。
賞味期限がある。
だから、美味しいフルーツが腐ってしまう前に、畑でフルーツを育てなければ、育て続けなければ、明日 美に触れる機会を失うのだ。