ウォーターオパールの輝きは、子供の頃に遊んだスーパーボールのラメの輝きを髣髴させ、見るたび強烈なカタルシスが俺の心をスポイルする。

赤、青、緑、紫、橙・・・乳白色のカット面から色相がキラキラと反射する恍惚は、世の中にそれしかなくてもいい、とさえ思わせる。

非日常的な反射を凝視していると、日常の悶々とした些事などどうでもよくなり、体の感覚すら忘れてしまう。

例えば単車で何処までも続く直線をフルスロットルで駆け抜けるとき、例えば水面に浮かび雲を追いかけるとき、それらのもたらす快感はそれぞれ別ではあるけれど、愛すべき快感の数々は、適切な効果をもたらすエンドルフィンの分泌があればこそである。





他人はどう感じるか分からないが、快感には音楽がともなう。

単車には単車の、水面には水面の、ウォーターオパールにはウォーターオパールの音楽がある。

それはまだ音楽以前の、混沌とした感情のうねりかも知れないが、何かの音が、頭の中の遠いところで鳴り響いている。音楽の生まれる源泉は、ある特定の快感の中にあるのは確かなことだ。
子供の頃、音楽家になる、と決めた。4歳の頃だった。たかだか4年の人生の中に音楽を作りたいと思わせる動機があったからこそ、そんなふうに思ったのだろう。

夕日の赤い輝きだったか、雲の流れる様だったか。
美しいものを見る快感は、人間の根幹に備わっている原始的な能力だ。誰からも教わることなくそれを美しいと思う心、快感だと思う心は、果たして何処からやってきたのだろう。





俺は宝石を見る快感を好むようになった。ちょっとしたきっかけが、俺の数寄を肥大させている。
宝石は美しくなければいけない。それを確認するために、時折コレクションボックスの中から愛すべき石を取り出す。

石の光線は、そのつど頭の中に奇妙な音楽を響かせる。
快感の映し出す幻影に、俺は理想を見る。ひょっとしたら、未来を造る力は快感から得るのが正解なのかも知れない。