「どうですか、もしよろしければワインでも飲みませんか」
隣に座ったニッカ姿の男は唐突にワインの瓶を向けた。
ざわついた店内は決して明るくなく、BGMは80年代のカフェバーみたいなスムースジャズだった。
クリスマス前の、浮かれた夜の街にありがちな、特別でも何でもない風景。
俺が答える前に、男はバーテンダーにワイングラスを持ってくるよう伝えた。バーテンダーは少し大きめのボルドータイプのワイングラスをカウンターに用意した。
「・・・ありがとう、頂いても・・・いいんですか?」
男は静かな笑顔で、俺の前に用意されたワイングラスになみなみとワインを注いだ。なみなみと、だ。
「以前からチャンスを窺っていました。ずっと恩返しがしたかったのですが、今夜、それが叶いそうだ」
俺はこの男を知らない。
「どこかでお会いしましたっけ?」
「あなたのお庭ですよ」
「庭?」
・・・子供の頃、実家の庭にこいのぼりを泳がせる高い高い柱を立てたけど、それは遠い遠い昔の話で、目の前の男は明らかに俺よりも年下である。
「わからないですかね」
「わからないな」
「思い出せないですか」
「うん、申し訳ないけど」
男はワインをぐびぐびと飲んだ。飲んで一呼吸、あらたまった様子でこちらに向かいなおし、先ほどに比べると幾分真剣なまなざしで俺を見据えた。
「私はとび職じゃありません。だからと言って、庭師でもないです」
「でもその格好・・・」
「これは趣味です」
バーには俺たちの他に、たくさんの若い男女が、酒を飲み、談笑していた。いくつもの会話が交わり、渦を巻き、店内にごうごうとした騒音を醸し出していた。男はつまみに出されたピーナツを5個、立て続けに食って「ニッカズボンとか七分袖のシャツのことは考えないで下さい、今日はあなたにこのワインを飲んで欲しかったのです」と、もう一度、俺の目の前にワインの瓶を差し出した。
シャトームートン73年。とんだビンテージワインだった。
「いいんですか、こんな貴重なもの・・・」
男は正面に向かいなおし、一口グラスを傾けてから静かに言った。
「あなたが庭の柿を一個だけ残してくれたおかげで、私の一族は絶えずに済んだのです。命の柿です」
一族の話よりも、ムートン73年をデキャンタも無く、しかもグラスにすりきり一杯注いで飲む行為が気になってしょうがなかった。
「柿・・・ですか?」
「柿です」
改めてワインを口に含んだ。枯葉の様な味わいで、たぶんワインが眠ったままなのだろう。
「明日、私は嫁を迎えます。私たちは家庭を作り、子供をたくさん作るでしょう。子供たちにはあなたのことを話して聞かせます。そして、一族を救った恩人にワインを奢った事を、私は子供たちや孫たちに自慢します。ええ、それはもう誇らしげに。だから、どうか今日はこのワインを一緒に飲んで頂きたい、これは私のためです」
「俺・・・何かしましたっけ?」
「だから、私たちのために柿を残してくれたじゃないですか」
男は少々気分を害したのか、俯いてため息をつくと、もう一度こちらに向かいなおり、ちょっと困った顔で話を続けた。
「いいですか?人間は何でも搾取する生き物だ、それは、人間以外の大抵の動物に共通の認識なんです。だから、動物は人間に期待なんかしちゃいない。でもあなたは違った。最後の一個、どうせなら全部収穫して食べてしまってもいいものを、鳥たちのために、と残したのは、私たちにとって驚きだった。驚きながらもありがたかった。生けとし生けるもの、かくあるべし、です。最初に柿の恩恵にあずかったのはわたしの母方の先祖でした。それから歴代の頭首があなたを伝説として語り継いだのです。今、私は伝説に触れている、これ以上の喜びは無いでしょう?」
「ちょっと待って下さい、あなたは鳥ですか?」
「はい」
鳥。ニッカズボンには泥が付いていて、どう見ても現場帰りのとび職さんにしか見えないのだが。
「わたしはオナガです。あなたの庭に飛来しては、最後の柿を・・・熟れた、甘い柿をついばんでいたのは私です」
男は真剣なまなざしだった。それは、酔って話す戯言とは明らかに違う、明確な意思があった。
「・・・あなたに何があったのか、俺にはわからない。でも、ひとつはっきりさせておかないといけないね。残念ながら、庭に柿の木は無いんだ」





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