石を削っている間は無心になれる。これは座禅を組んでいる時と同じ心境だ。だから、石を削る時間を大切にしている。
それと同様、例えば絵を描く時、曲をマスタリングする時も意識は集中する。
陶芸などは集中し過ぎて寝食さえ忘れるだろう。
しかしながら、創作活動が全て精神的な没頭をもたらしてくれるのかと問えばそうでもない。例えば一連の文章を考える時、一つの事柄が、付随するたくさんの雑念を生み、その雑念の一つ一つからまた新しい物語が見え隠れするのは、気が散るどころの不安定さと比べる事が出来ないほどの混濁した精神状態だ。
だから、小説家や脚本家、漫画家など、ストーリーを創作する人たちの精神状態や如何と感心する。
歴史の中に、精神的混濁に苦しんだ音楽家や陶芸家を見つける作業は困難だが、ノイローゼ文筆家を発見するのは容易である。
精神的混濁な作業を生業とする人(文筆業に限らず、大抵の働く人々もここに分類される)にこそ、石を削ったり絵を描いたりろくろを回したり、もしくは参禅するのが、精神のバランスを保つために有効だと思う。
安定のために石を削り、後を振り返ると、たくさんの勾玉が山になっている。ひとつひとつが思い入れのある勾玉だ。
今手がけているのがラリマーの勾玉。
何故ラリマーを削っているのか?
ラリマーでこしらえた勾玉を見掛けないからである。