ウツボカズラは、ただ黙って虫が来るのを待っている。食虫植物の中でもとりわけ植物らしい植物だ。
例えばハエトリグサやモウセンゴケは自ら動いて捕食する。その動作は植物といえども、どことなく動物の様だ。
動く、ということは、対比速度が出るわけで、これは動物の食物連鎖の重要な要素であり、速ければ速いほど連鎖の頂点に近くなる。
一瞬のスピード、未体験のパワー、これはもう逃れる事は難しい。
だが、ウツボカズラは動かない。
普通の植物と何ら変わるところが無い。
だから、近付かなければ危うい思いをせずに済む。
大抵の虫たちはウツボカズラが危険な代物である事ぐらい分かっていそうなもんだ、とは思わないか。あそこに近づいちゃいけないよ、あの穴に落ちて生きて出てこれた者は居ないんだ。太古の昔から自分達の身を危うくする存在なのだから、DNAに刻まれた記憶としてその場に近寄らない習性が残っていてもいい。 それでも虫たちは自ら進んでウツボカズラの胃袋に落下する歴史をやめない。 いつまでも自発的にウツボカズラの餌食になり続けている。
何故だろう。


俺は専門家じゃないから分からないが、イメージとしてはなんとなくこうじゃないかな。 つまり、食虫植物の類は、虫たちにとってとても魅力的な存在なのだ。
うっとりする様な良い香りがしたり、惚れ惚れする美しいフォルムをしていたり。
何か「人生を懸けても構わない」「これで死ねたら本望だ」と思わせる有意義な意味を、食虫植物は持っているのだ。
そうでもなければ虫たちが恐ろしい悪魔に近づく理由は無い。
往々にして恐ろしい存在には対象をとりこにする不思議な魅力が備わっている。


人はどうだろう。

自分を素敵に変えてくれる何かを見出し、それを追求することが自分の運命だったり存在理由だったりするのだと、どこかで思い込んでいやしないか。

自分は今、幸せだと思っていないから、幸せにしてくれる何かを見出し、それに向かって突き進む。
行き着く先に幸せがあればいいが、それじゃあ幸せとは何だろう。
分かっているから追いかけるのだろう、と思いきや、大抵の人は「幸せの正体」なんて知らない。
漠然としたテーマで時間という原稿用紙に何百枚もの甘美な文字を羅列するけど、その先には思いも寄らぬ結末が待っていたりする。
物語の世界でも現実の世界でも、何がドラマを作り上げるのかといえば「盲信」である。
たった一度の偶然が、あたかも必然であったかのように感じさせる。
盲信が作り上げる陶酔感、多幸感、躍動感などのマーブル模様の心は、どこかしら神秘的で居心地がいい。
それと共に人生を歩んでも構わない、とすら思う。
そのドラマの先にウツボカズラの胃袋が無ければいいのだが。