?子供の頃には全く気が付かなかったが、記憶というものは蓄積されればされるほど、ふるいにかけられて精査されるものらしい。
今のところ41年間生きてきて、これだ!という記憶、すぐにでも思い出せる記憶なんて指折り数えるほどしかない。
しっかり考えて考えれば、たぶん結構たくさんの思い出があるのだろうが、じゃあ今何か思い出して語ってみなよ、と言われれば、思いつく遠い出来事は、それほど多くはない。
例えば、俺のばあちゃんは93歳だ。
おぎゃあと生まれてから既に93年経っているのだが、今でも嬉々として語る思い出話といえば、子供の頃に見たきつねの嫁入りだったり、娘時代、夕暮れ時に出遭った巨大な青い火の玉の思い出だったりと、数は限られる。
俺はどうだろう。
今思い出せと言われれば、えりちゃんと牛糞の思い出だろう。
まだシビレダケなどの毒キノコが規制される前の話だ。
まず俺の話をしよう。
初めてバリ島に行ったのが20歳くらいの頃。もう20年位前の話になる。
それ以来俺は、すっかりバリ島リピーターになった。
どの位リピーターになったのかと云うと、この20数年の間で赴いた海外旅行は全てバリ島だ。
その記録は伸び続けている。
で、初めてバリに赴いてからしばらくして、俺はバリ島名物「マジックマッシュルーム」に手を出した。
素晴らしい体験だった。
どんな風に素晴らしいのかは、「マジックマッシュルーム」で検索すれば山のようにヒットするから、そこで見てくれればいい。
で、キノコの素晴らしさにすっかり酔いしれた俺は、キノコ研究を始めた。
俺が敬愛する偉人の中には、もともとキノコが好きだった人物が多い。
まず南方 熊楠(みなかた くまぐす 1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年12月29日)
彼は日本初の博物学者であり、粘菌研究の第一人者であった。
それ以上に伝説的奇行が有名だった。
山歩きをして珍しいキノコに出遭うたび、彼はそれを食った。
熊楠はキノコの虜となり、夜毎毒キノコを食らってはゲラゲラ笑っていたのだそうだ。
そして大好きな音楽家、ジョン・ケージ(John Milton Cage、1912年9月5日 - 1992年8月12日)
彼がキノコ研究にはまったのは、辞書でmusicの一つ前がmushroomだったからだという単純明快なきっかけだった。
彼もまた毒キノコに魅せられ、時には命をもキノコに捧げかねなかった。
そんな大好きな偉人たちと趣味を共有出来る事が、俺には嬉しかった。
彼らの影響もあってか、ずいぶん勉強した。
そのおかげで、山歩きをして出遭うキノコは大体分かる。
だから、キノコ狩りの時には俺を連れていけばいい。
どのキノコが食えて、どのキノコが食えないのか大体分かる。
食ったら死ぬキノコは日本国内であれば4種類、あとのキノコは熱が出たり腹を下したりするくらいで死ぬ事は少ない。
まあ、飽くまでも「少ない」だから。気をつけて。
そしてえりちゃんだ。
えりちゃんと俺は、何年前だろう、バイク好きな不良の集まる酒場に、バイク好きの父親と連れだって現れたのが、彼女が小学5年生の頃だった。
たぶん今から20年前だ。
それ以来、えりちゃんは俺ら「いけない大人たち」と兄弟みたいに付き合ってきた。
彼女が22歳くらいの頃、仲間達とバリ島に出向き、俺と同様マッシュにはまった。
それからだ。
俺と友人達と、そしてえりちゃんとのキノコ大作戦が始まった。
あの感動を日本でも!という事で、シビレダケの生えてきそうな牧場をハシゴして回った。
俺が仕事で出られない時でも、友人達は牧場に出向いた。
出向いた先から電話をよこして、俺にキノコ鑑定を依頼した。
「茎は縦に裂けるんだけど、切り口は紫色に変色しないな」
「どうだろう・・・ わからないけど、それはトマヤタケの仲間じゃないかな。毒だけど、あまり気持ちのいい毒じゃないと思う」
「それとさ、木の上のほうに金色のキノコが群生してたから苦労して取ってきたんだよ。オオワライタケかも知れない」
「それ持ってきて。胞子を調べるから」
それはオオワライタケなどではなく、高級食材なキノコだった。
そんな事を繰り返しているうち、俺たちは牧場の牛の糞の上ですら平気で歩ける様になった。
その時は俺は居なかったが、ある牧場で、えりちゃんは牛糞にまみれながらたくさんのシビレダケを採取する事が出来た。
電話があった。
「ねえニシピー(ニシピーは俺のあだ名)マッシュ大漁なんだけど、持って行っていい?」
「悪いわけないだろ、持ってきなよ」
彼女は牛糞ごと持ってきた。
鼻がちぎれるほど臭かったが、その牛糞の上にはシビレダケが見事に群生していた。
彼女は糞まみれだった。
俺はその牛糞を半年間育てた。
半年の間、俺は牛糞の恩恵にあずかったと云う訳だ。??
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