女性(グル)の案内で、神の山と言われているアルナチャラのケイブにて、



ラマナ氏が過ごしたというアシュラムにきた。





とても小さく簡素なたたずまい。




でも、大切な場として存在してきたのが、感じられるような空気感。







コンクリートの床上で、女性(グル)はラマナ氏の写真を前に、メディテーション。





その後ろで、私と韓国人の彼女は同じようにする。






私も心静かにメディテーション。




と思ったが、女性(グル)の姿を見ずにはいられなかった。







そこだけ空気が違うような、それでいてここに流れているものと一体になっているような、




大いなる存在感。







私はその姿を感じながら、メディテーションというより、




日本で神社にお参りに行った時のように、心の中でラマナ氏にご挨拶をし、




ここに来させていただいたお礼を伝えていた。







メディテーションを終えた女性(グル)は、




隣の部屋にある、ラマナ氏が使っていたとても小さなベットの前に立った。






そしてそのまま床に膝をつき、ベットに頭を伏せた。







その姿は、まるで安心しきっているかのようなやわらかさ。




その姿は、まるで深い深い感謝を全身で表しているかのよう。







この光景、インド人が額を床につけてひれ伏しているのと同じかな?








そうか。





インド人はきっとこうとらえているんだ。




神によって自分は在る、と。







私はインドに来た時から、



豊かな人も貧しい人も、いつもアシュラムに通い、多くの時間をそこにかけ、



額をひれ伏している光景に目を奪われていた。





周りと関わることなく、一人で来て一人で帰る。




みんな、穏やかな顔をしている。






そしてインド人は、”今” という瞬間を楽しんでいるようにも感じていた。





言葉がわからないからなんとも言えないが、その表情からは、



過去の不満や愚痴、未来の不安など言いあったり慰めあったりしてるようには見えなかった。




ただ素直に ”今” という時に在るように見えていて、私やその周りとの違いは何なんだろうと思っていた。







神によって自分は在る。




すべては、神によって与えられている。





神と、自分。




その意識の中でのダイレクトなつながり。






だから、いつもこうして神と対話してるんだ。




神を尊び、感謝を表してるんだ。







外側のことに、目に映ることに、価値や答えを求めるのではなく、




自分の内側を、神と共に、神を通して見つめているのかもしれない。






もちろん、インド人にエゴや恐れといったものがないということではないだろう。



きっと、同じようにそれに振り回されたり苦しんだりもあるかもしれない。





その時彼らは、



自分であがいてエゴや恐れを増やしたり、



他者を巻き込んでより暗闇に入ったりはしないのではないか。







神を信頼し、ゆだねきる。



感謝をもって、受け入れる。 



共に、在る。 在ろうとする。





だから、与えられている ”今” という瞬間を楽しむことで、感謝と敬意を表わしているのではないか。







私は、宗教的なことはわからない。



でも、それにより習わしや価値観は違うことがあっても、




真実は一つだと思っている。







女性(グル)の姿を通して、探していた答えが見えたように感じた。







私の中に、このアルナチャラに吹く風と共に、





真っ直ぐな光が差し込む、そんな瞬間だった。