駒沢敏器さん
最初に会ったのは、
駒沢くんがアメリカのテンプル大学から帰国してすぐのときだったから、
駒沢くん24歳、僕が22歳のときだった。
「雑誌を作りたい人間がいる」という
片岡義男さんの紹介で、編集部に現れたのが駒沢くんだった。
2歳年上ではあるけれど、
編集部のなかでは僕が先輩。
しかも、当時のSwitchは他に編集長であり社長の新井さんしかいなかった時期もあり、
駒沢くんは僕のことを「キクチ」、
僕は駒沢くんのことを「コマちゃん」「もしくはコマザワくん」と呼び合い、
ふたりで、青山の夜によく話し込んだ。
田舎で生まれ、東京に憧れて出てきた僕。
「野外」や「自然」にはまったく関心がなく、
都市にうごめく人間、そしてそこで誕生するものに興味があった。
ライブやクラブなど、いわば「都市の夜」の世界。
いっぽう駒沢くんは、東京の郊外で生まれた。
都市にいることの猥雑さを吸収しながら、
自分の居場所を求め、時間があれば森の中へ向かっていっていた。
空を感じること、風を感じること。
そして地球の上で生きていることを感じること。
生きていくなかで、それがいかに大切であることを教えてくれたのが
駒沢くんだった。
野性を自分に抱えることがいかに大切なことかを、
駒沢くんは教えてくれた。
都市と地球。
まったく意識の向き方が違うと思っていたことを、
実は一緒のものであり、
ふたつを共有することから、
自分らしい生き方を導きだせるんじゃないか。
アンセル・アダムズ、ゲイリー・スナイダー…。
そんな先達の生き方や作品をバーボンの肴に、
いろんなことを語り合った。
20代を、同じ編集部で過ごした。
そして、同じように30代に入ることを機に編集部を離れた。
20代の頃の大切な仲間。
いつか、どこかでバーボンを呑もうね。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
(TK)
駒沢くんがアメリカのテンプル大学から帰国してすぐのときだったから、
駒沢くん24歳、僕が22歳のときだった。
「雑誌を作りたい人間がいる」という
片岡義男さんの紹介で、編集部に現れたのが駒沢くんだった。
2歳年上ではあるけれど、
編集部のなかでは僕が先輩。
しかも、当時のSwitchは他に編集長であり社長の新井さんしかいなかった時期もあり、
駒沢くんは僕のことを「キクチ」、
僕は駒沢くんのことを「コマちゃん」「もしくはコマザワくん」と呼び合い、
ふたりで、青山の夜によく話し込んだ。
田舎で生まれ、東京に憧れて出てきた僕。
「野外」や「自然」にはまったく関心がなく、
都市にうごめく人間、そしてそこで誕生するものに興味があった。
ライブやクラブなど、いわば「都市の夜」の世界。
いっぽう駒沢くんは、東京の郊外で生まれた。
都市にいることの猥雑さを吸収しながら、
自分の居場所を求め、時間があれば森の中へ向かっていっていた。
空を感じること、風を感じること。
そして地球の上で生きていることを感じること。
生きていくなかで、それがいかに大切であることを教えてくれたのが
駒沢くんだった。
野性を自分に抱えることがいかに大切なことかを、
駒沢くんは教えてくれた。
都市と地球。
まったく意識の向き方が違うと思っていたことを、
実は一緒のものであり、
ふたつを共有することから、
自分らしい生き方を導きだせるんじゃないか。
アンセル・アダムズ、ゲイリー・スナイダー…。
そんな先達の生き方や作品をバーボンの肴に、
いろんなことを語り合った。
20代を、同じ編集部で過ごした。
そして、同じように30代に入ることを機に編集部を離れた。
20代の頃の大切な仲間。
いつか、どこかでバーボンを呑もうね。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
(TK)