書行無常展
藤原新也さんの書行無常展へ行った。
外神田にある、かつて中学校の校舎をリノベーションして作られたギャラリーが会場だ。
校舎ということもあって、
かなりゆったりとした空間がある。

藤原さんと最初にお会いしたのは、25年ほど前になる。
もう四半世紀も前になるのか。
その後、しばらくは雑誌の編集者と作家という関係で、
お付き合いさせてもらっていた。
時に濃密な時間もお供させてもらい、
いろんなことを教わった。
(それが、今に少しは繋がっていると思う)
今でも、展覧会が近郊で開催されると聞けば、
必ず足を運んでいる。
藤原さんの新しい展覧会が、書行無常展だ。
毎週、どこかに出向き、
その場で即興で書を書く。
インドのガンジス川、渋谷のスクランブル交差点、
そして東北大震災の被災地…。
その瞬間にその場に立つことによって浮かび上がってくる言葉。
その言葉の持つ意味や深さを、
書を見ることによって追体験する。
なぜそこにいたのか。そこに行かねばならなかったのか。
自分では考えていなかったはずなのに、
それがあたかも、天から呼ばれたような事象が起こる。
数少ないけれど、藤原さんと旅をして、
そんなことを感じた。
20年以上に前に感じたその想いが、
ひとつひとつの写真、ひとつひとつの書から伝わってくる。
自分を信じること。
藤原さんに教わったことを一言で表現するのなら、
この言葉になるのかもしれない。
人の想いを繋げ、人の想いを写真や書という形で残していく。
藤原さんの書や写真は、自分にとって簡単に見るものではなく、
ある種「覚悟して」向き合う存在。

この展覧会に寄せた藤原さんの言葉が、なかなか頭から離れていかない。
「わたしはあきらめない」。
閉館時間まで、じっと写真や書の前にいた。
書や写真の持つエネルギー。
またしても、大きな力をもらうことができた。
書行無常展は、明日27日まで開催。
(TK)

外神田にある、かつて中学校の校舎をリノベーションして作られたギャラリーが会場だ。
校舎ということもあって、
かなりゆったりとした空間がある。

藤原さんと最初にお会いしたのは、25年ほど前になる。
もう四半世紀も前になるのか。
その後、しばらくは雑誌の編集者と作家という関係で、
お付き合いさせてもらっていた。
時に濃密な時間もお供させてもらい、
いろんなことを教わった。
(それが、今に少しは繋がっていると思う)
今でも、展覧会が近郊で開催されると聞けば、
必ず足を運んでいる。
藤原さんの新しい展覧会が、書行無常展だ。
毎週、どこかに出向き、
その場で即興で書を書く。
インドのガンジス川、渋谷のスクランブル交差点、
そして東北大震災の被災地…。
その瞬間にその場に立つことによって浮かび上がってくる言葉。
その言葉の持つ意味や深さを、
書を見ることによって追体験する。
なぜそこにいたのか。そこに行かねばならなかったのか。
自分では考えていなかったはずなのに、
それがあたかも、天から呼ばれたような事象が起こる。
数少ないけれど、藤原さんと旅をして、
そんなことを感じた。
20年以上に前に感じたその想いが、
ひとつひとつの写真、ひとつひとつの書から伝わってくる。
自分を信じること。
藤原さんに教わったことを一言で表現するのなら、
この言葉になるのかもしれない。
人の想いを繋げ、人の想いを写真や書という形で残していく。
藤原さんの書や写真は、自分にとって簡単に見るものではなく、
ある種「覚悟して」向き合う存在。

この展覧会に寄せた藤原さんの言葉が、なかなか頭から離れていかない。
「わたしはあきらめない」。
閉館時間まで、じっと写真や書の前にいた。
書や写真の持つエネルギー。
またしても、大きな力をもらうことができた。
書行無常展は、明日27日まで開催。
(TK)
