昨日、朝早いうちは、雨が降ったりしていた。

南丹方面の用事が済んでから、出雲大神宮にお詣りして、その足で、すぐそばの七谷川の桜を観に行きました。

その頃には、空が晴れて来ました。




この「七谷川の桜」には、手垢に染まった日本の花見的な汚れちまった感が、ありません。


出店(たこ焼きとか唐揚げとかの)がない!
従って、ごみもない。
そして、カラオケもない!

亀岡市民が、持参のお弁当をひろげて、談笑する声と、七谷川の流れの音。

とても健全で、お行儀が良い!!のです。

ここを訪れたのは、去年が初めてでした。




今回の、二度目の七谷川は、花がマックスではありません。

それは、落ち着いた感じで、更に良い。

だって、人が少ないから。




もう、散り始めていて、風でピンク色の吹きだまりがある。
風で、散った花びらの風紋が、道にできてるのが、可愛い。

お花見の場所って、不思議。
何かの見えない力を感じる。


桜のごつごつした木や、そのいかつい枝から、直接、大量の花が咲いていて、それも、不似合いな小さな可愛い花が一斉に咲いて、走り去るように、風に吹かれて終わってしまうのに。

そんな長持ちしない花を、日本人は大好きで、愛でるのが好きだから。
山から選んで来て。
歴史のなかで、沢山の桜の木を、とあるエリアに集中植樹して育てて、お花見の場所を、人工的に、たくさん作ってきた。
愛でたいから。
でも、騒ぎたいから、も、ある。


どっちだろう。


恥ずかしがりやで大人しい日本人が、羽目をはずして、桜の木の下で、飲めや唄えやで、踊ったり、めちゃくちゃする。
私が呑めたら、私もめちゃくちゃしたいだろう。

日本人のお花見習慣の歴史。
「花が先か、団子が先か」
わかりません、知りません。


私の中の日本人のDNAが呼応するからなのかしら。
お花見は、したいねん。
私の場合は、ややおとなし目に、愛でたいねん。
(呑めへんからなんやろうけど)


桜の花一つ一つ、それぞれから、何かわからない、精のようなものが空気に溶け込んでいて、それにやさしくふんわり包まれているような、そんな幸せな心地になる。
思わず、ため息を何度も繰り返す。
(あぁ、幸せ)って。

桜の花の精に触れて遊ぶ、のが好き。



私好みの、やや大人しめのお花見方式が、実践可能な場所が、この「七谷川の桜」で、あります。

日本の伝統、騒ぎたい方は、よそに行って下さい。
「七谷川」では、大騒ぎ、しないでね。


この「七谷川の桜」、夜10時まで、ライトアップしているそうです。

夜桜、いっぺん是非経験してみたいな、私も。

川の流れの音の響きの中に浮かび上がる夜桜、これはまた、昼間の健全さとは対照的に、想像するだに幻想的です。

幻想が瞑想を呼び、瞑想が直接、狂気につながるわけではないと、思いますが。

常軌を逸する感は否めません。
常軌を逸するあまり、脳内麻薬から、依存が発生するようになり……

(こんな事書いちゃいけない)

年に一度の花見じゃないか、どうせパッと散るのだから、この刹那だけ、狂ったように騒いでもいいではないか、と、オモッタ人がいた、とか、いないとか。(チコちゃんのナレーション口調で)



「花見は年に一度の依存である」を来す、ちょうど木の芽時の花の宴として、日本人に花見の習慣(桜の花の木の下で、静かに花を見る事をせず、呑めや唄えやの大騒ぎをする)が定着した、とか、しないとか(再び、チコちゃんのナレーション口調)

昔、日本人が、夜昼問わず、桜という一時に大量に咲く花から、何らかの刺激を受けて、桜の開花を、段々に、娯楽ととらえるようになった、というのは、あり、やと思う。

江戸時代、吉宗の時代の幕府の政策だった、って聞いたこともある。


庶民のガス抜き。


どうでもいい。
知らんし。


この年になると、人混みやら雑多な喧騒やらが苦手になってきたのん。

だから……

お花見は、静かにしてほしいです。
呑めない私はね。