たった今、鴬が一声。

こないだ行った吉野で、大感激した蔵王権現三体の色。

スマホでもう少し詳しく知りたい、と、思って調べたら。

黒やと思てたら、青だったらしい。

なんと、恥ずかしい。
お詫びと訂正です。
ごめんなさい。


それも、普段はなかなかお目にかかれない、特別御開帳だったから、観られたんだ。


内陣のスペースの割に、御三体がでかすぎ。
開帳されていない普段の長き緩き時の流れの中、刻々と降り積るちりや埃の中、仏は何と感じてはるのだろう。

しかも、あの狭い中。
さぞ窮屈だろうと、わたしゃ同情する。
と同時に、金峯山寺(興行主)側の思惑としては、あの御三体のでかさにより、人々に異次元の迫力を浴びせ、驚愕という感情でもって、衆生の信仰心(ハート=お金)を、惹き付けたい、という狙いがあったのではなかろうか。


だって、私達じいさんばあさん、二人分拝観料払ってるし、みんなも、発露の間のために、ぞろぞろ並んで行列してるもん。


発露の間という、小さく仕切られたブースが、御三体の前にあり、一人か二人入って、参拝者は何かを胸に、仏と対峙する。
そして、備え付けの葉書に何か願い事を書いて、ポストに投函する。


そんな葉書がある、発露の間に入るのに、千円払う。

発露の間への行列は、太鼓や法螺貝で、瞑想を誘う、ロックのコンサートへの誘い、あるいは、USJのジュラシックパークのライドとか、ディズニーのインディーのライドを待つような雰囲気。

暗いんだもん。




吉野川でとれた川魚だと、おもう。

わかりづらいかも知れませんが、お魚の模様の赤がとっても美しい。




神社エリア内の石は、真っ白け。
石碑か何かわからない。

何でこんな模様になるのでしょう。

この石は長い間、ずっとここに置かれっぱなしのまま、じっとしてきたのでしょうね。

吉野は修験者の信仰の聖地。
観光地は観光地なんやけど。

地域全体に、凛と引き締まった空気が感じられると言うか、ほんまに、景色の山からして清まってるなぁ、という感じがして、あれで、桜が満開やったら、言うことなかったのに、と、つくづく残念でした。

関西弁で、スマートな印象の人を、よく、「あの人は、シュッとしてはる」などと表現しますが、まさにその、シュッとした感じを、吉野に感じたのでございます、私は。