Meigetsuki_(Kitamura_Museum)明月記 北村美術館蔵
定家がオーロラのことを「赤気」として
京都で観測していたことは
知られているし、今回のオーロラで以前にも書いた。
建仁4(1204)年2月21日だと定家は日記に書いているという。
輪島のオーロラ
各地でオーロラが観測されたようだが
藤原定家の明月記に記されたように
今回も京都周辺で観ることができたというのは
私にとって新しい発見であった。
オーロラが出た日。
奇しくもテイカカズラが庭で咲いていた。
テイカカズラは蔓性の植物で
色々種類があるようだけれど
この株は植物の愛好家である、とある女性から
譲り受けたもので時々赤い葉が混じっている品種で
それが白い花をより華やかにみせている。
ごっしーの三女である式子内親王は藤原定家の思い人であると
言われることがある。
萩原朔太郎が式子内親王が好きで歌人としての
魅力を書いているが、その中で定家は「下級の下働きだった」
そんなようなことを書いていてꉂ(ˊᗜˋ*)
いえいえ定家は家司で式子内親王の今風に言えばバトラー
執事のような存在だったと私は考えています。
定家が式子内親王と深く繋がる理由のひとつに
歌人である定家の父・藤原俊成が式子内親王の和歌の師で
元々互いの素性を良く知り合っていたのだと思う。
その定家が式子内親王への思いが強く
テイカカズラとなって亡き内親王の墓に絡みつくと
言うお能の演目があると言う。
朔太郎が言うように
式子内親王は「悲恋の歌人式子内親王」
しかも頑なに忍ぶ恋の相手を秘すのです。
未だに彼女の思い人は特定されず
定家であると言う話もあるにはあるのですが
また、高名な宗教家であるとも言われていて
そういわれると定家では
少し忍ぶ恋の相手としては
天皇の内親王であり加茂の斎宮であった
式子内親王からすると身分も徳の高さもやや不足なのです。
京都市上京区今出川通(いまでがわどおり)(だと思う。)
式子内親王の墓にお参りしたことが
ありますが、そこは定家の旧時雨亭跡だとも
当時聞いたのですが、地元で郵便局や民家などで
色々聞いたのですが真偽はわかりませんでした。
時雨亭(しぐれのちん)の場所は未詳だと言います。
病み伏した式子内親王を定家がとても気遣い
晩年もお世話したことが伝えられますが
そのお墓もおそらく定家に依り
丁寧に陰陽道に沿って埋葬されていたように感じられた。