思慮深い人々は大空の星のように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

ダニエル123

 

 

 

 

 現在の子供たちは多くの大切なことを教えてもらうことなく大人になってゆきます。入学試験に必要な知識を多く身につけた人が、高学歴な大学に入り、その後の地位や収入に大きく影響を及ぼしてゆくから仕方のないところです。

 

 ですがそのために大切な部分が欠落したまま大人になってしまい、大切な部分が成長することなく過ごしてしまいます。

私たちはあたかも、自分の力で過ごしているように思いがちです。

ですがそれだけではありません。

神の守りの中で過ごしています。

 

 その祝福は人それぞれによって違います。

その人自身が良い人であるがゆえに受ける幸いもありますが、その人の先祖の人が良かったために受け幸いもあります。

逆に、その人自身は何も害や恵みを受けることがなかったとしても、その人のゆえに、その後の子孫の人々が代々苦しみや、喜びを受けてゆくということもあります。

 

 私たちは正しく歩んでいても大きく得をすることがないように思いがちです。

ですがそうではありません。

神の喜ばれるような歩みをしている人の行いは、誰の目に触れることがなかったとしても、神は見ていてくださっています。

 

 人に賞賛されたり、賞を取ったりすることはなくても、その正しい人の歩みは神によって祝福されます。

自分自身では、何も気づいていなかったとしても、そこには神の守りがあるのです。その恵みは一瞬ではありません。『多くの者を義とした者は、世々限りなく』とあります。

世々限りなくとは、永遠にということです。

 

人は肉体を持った人生がすべてではありません。

その後もずっと続いてゆきます。

ほんのちょっとした私たちの何気ない言動が、世々限りなく私たちの歩みを変えてゆくのです。

 

 神は見ていてくださっています。

隠れた所で、そっと見ていてくださっています。

その恵みはとこしえまであります。

その恵みは消えることがありません。

 

 正しく見てくださっています主に感謝します。

平成301021

その人は、

水路のそばに植わった木のようだ

時が来ると実がなり、その葉は枯れない

その人は、何をしても栄える

 

旧約聖書 詩篇13

 

 

 

 

世の中には、賢く、何でもいとも簡単にやってのける人がいます。

他の人の知らないようなことをいろいろと知っていて、初めて行うことでもあまり迷うことなく簡単にやってしまいます。

 

 それとは別に運の良い人がいます。

特に秀でた感じはしないのだけど、なぜかうまくできてしまう人です。

同じようなことをしていてもある人は失敗ばかりしてしまうのに、別のある人はなぜかできてしまう。

今度はうまくいかないかなと思うと、誰か助けてくれる人が現れるといった感じです。

 

 この詩篇では、『その人は』といった人が出てきます。

その人とはどの人かといいますとこれは、同じく詩篇の1編の1節にこう書かれています

 

『悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人』

 

 今の世の中には誘惑がたくさんあります。

特に金銭の誘惑は最も厄介です。

人よりも贅沢をしたい、人よりもお金持ちになりたい、そう思う心が強すぎると誘惑の罠に陥ってしまう危険があります。

 

 聖書には書かれています。

悪者に同調して、悪い道に進まなかった人は、水路のそばに植わった木のようだと。

そこは、私たちが生きてゆくうえでもっとも大切な、水が豊かに流れているところです。

日照りが何日も続いてもそこには水が流れ、潤っています。

そこには特別な恵みがあるのです。

 

 神を信じ、神の戒めを守り歩んでいる人たちの上にはこうした神の豊かな恵みが枯れることなく流れているのです。

では、失敗した人はどうすればよいのでしょうか?

それは、悔い改めることです。

 

 イエス様がその働きを行う前に、バプテスマのヨハネが、人々に悔い改めを説きました。

それは、もうすぐ神の人、キリストが来られるから、その御前に出ることができるように、人々に準備をさせるためです。

 

 わたしたちは、正しく生きてゆきたいと思っていても、罪を犯してしまいます。

人々とかかわる中で衝突したり、いがみ合ったり罵ったりといった、神の嫌うようなことを考えたり、してしまったりします。

私たちには、悔い改めが必要です。

 

 悔いあためて、神の御心に沿った歩みを始めてゆくとき、神は私たちを助けてくださいます。

すぐにではありません。時間が必要です。

 

ですが、時が来ると、神は必ず助けてくださいます。

祝福してくださいます。

そのときがいつかはわかりません。私たちが決める時ではなく、神が私たちに助けてあげようという思いを持っていただいた時です。

 

 神は私たちのことを見てくださっています。

良い時も、悪い時も、いつも見てくださっています。

神の守り、神の恵みを受けて歩む歩みは、どんなにすばらしいことでしょう。

 

 あなたの上にも、イエス様の祝福がありますように

平成301014

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めとと矯正と義の訓練のために有益です。

新約聖書テモテⅡ   316

 

 

 

聖書の中には様々なお話や歴史的な事実、詩、預言や、イエス様のお話などが記されています。

聖書を実際に書き留めたのは人間ですが、実はそれを記すようされたのは神の霊感によります。

すなわち、神がそれを私たちが読むことができるように書き留めさせてくださったものです

 

多くの国では、その王がいかに偉大であったかということを書きものにして残しています。ですが、都合の悪いことは書きませんし、また、後の世になってその一部が書き換えられたり抹消されたりもします。

ですが聖書はそうではありません。

歴史的な事実を描いてはいても、それは偉大な王をほめたたえるためではなく、むしろその逆です。

イスラエルの中で偉大な王として名前を挙げられる人のひとりはダビデでしょう。

小学校の美術室などにダビデ像といって裸の若者の彫刻があったりしてミロのビーナスのようにそれで記憶されている人も多いのではないでしょうか。

 

 ダビデは、もちろん人一倍勇気のある人でしたし、多くの戦いで勝利をおさめイスラエルの国の領土を広げてゆきました。

ですがそのダビデについて非常に苦しんでいる姿や敵の前で辱めを受けている姿、そして自分自身の罪の呵責の念で苦しみぬいている話なども赤裸々に語られています。

 

 それは、ダビデ自身に偉大な力あったわけではなく、神がダビデに働いてくださって大きな成果を上げて行ったことを私たちが知ることのできるためなのです。

普通、王様は自国が勢力を増して安泰な状態であればお城の中でふんぞり返ってわがままに過ごすものです。

自分の周りの人たちはみんな自分の家来なのですからすべてを自分の気に入るように変えてしまうものです。

 

ですが、ダビデはそうではありませんでした。

もちろん、王の特権による誘惑によってひどいことをしてしまったこともありました。

ですがダビデは知っていました。自分の上に神が働いてくださっていること。そして、ダビデは神の御心に逆らうような道を歩んでしまうと、神は決して祝福してはくださらないということを。

 

そう、私たちはすべて自分の力で生きているのではないのです。

神の許しの中で過ごしているのです。

 

神は私たち人間が、自分勝手な道を進んでしまうものであることを知っていました。

間違いやすいものであることを知っていました。

ですから神は聖書を私たちの与えてくださったのです。

 

これは、人の知恵や人の思いから書かれたものではありません。

神のご計画によって記されました。

それは、何千年も前に生きた人のためでもありましたがそれだけではありません。今、この時代に生きている人のためにも書かれているのです。

いえ、むしろ、今の時代に人にとってこそ最も大切といえます。

なぜなら、この地球がすでに痛んできたからです。

 

 私たちは今、神に立ち返りその思いをしっかりと受け止めてゆく必要があります。

そうで無ければ、私たちはただ、狂った方向へと進み続けてしまいまあす。

神は今の時代のことだけでなく、こののちの時代のことも私たちに教えてくださっています。

 今、私たちには聖書が必要です。

神につながってゆく方法として最も的確なのが聖書だからです。

私たちに必要な御言葉がその中にちりばめられているのです。

 

 一人でも多くの人が聖書の御言葉に触れて、その目が開かれますように。

あなたが、今日救いを受けることができますように。

平成30107

愛する者たち。霊だからといってみな信じてはいけません。それらの霊が神からのものであるかどうかを、ためしなさい。

なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出てきたからです。

新約聖書ヨハネⅠ  41

 

 

 

 

 私たち人間には見ることのできるものとみることのできないものがあります。

同じ人間でも野に暮らし狩りを行う人たちには遠くのほんの小さな獲物でも見つけることができたりします。

 

 人には、普通、霊を見ることはできません。

ですが私たちは何か虫の知らせがあったと感じたり、不思議な体験をした人の話をテレビで見たりします。

 

 霊は、聖書にも書かれている存在するものなのです。

ですが、霊の中にも良い霊と悪い霊があります。

悪霊と呼ばれる悪い霊も、残念ながら存在するのです。

聖書に出てくる悪霊の多くは、その人の中に入り込み、その人を自分のコントロール下に支配して行きます。初めは、そんな感じではなかったとしても、徐々にその度合いをエスカレートさせ、ついにはその人自身を傷つけたり火の中に飛び込ませようとしたりして、その人の命を奪おうとしてゆきます。

 

 何気ないお遊びの気持ちでその霊とかかわってゆくことはとても危険なことなのです。

 

 人は不思議なものには興味をそそられます。

例えば占いの霊など、自分の知りえない未来を無透かしたような気持ちにさせられます。

パウロがある町で出会ったのもそうした占いの霊に取りつかれた女性でした。

その女性は先のことを告げることによってある金持ちに利益を上げさせていて重宝されていました。

ですがその女性はというと、すっかり占いの霊に操られている状態でした。

 

 悪霊の厄介な点は、その人の中にしつこく居座ることです。

簡単には出てゆきません。

イエス・キリストの権威ある御名によって信仰を用いて追い出さなければ出てゆきません。

 

 私たちは不思議な出来事に出合った時、気をつける必要があります。

その悪霊の力を借りようと招き入れてしまうと、そのあとに破滅がやってきてしまう危険があります。

 

イエス・キリストを告白する霊は神から出た良い霊です。

そうでない霊は悪い霊です。

私たちの周りには、私たちが好むと好まざるにかかわらず、良いことだけではなく悪いこともあります。

 

 私たちは気をつけて見分ける必要があります。

イエス・キリストにしっかりつながり続けて歩む歩みは私たちを守ってくれます。

イエス様に感謝します。

平成30930

家を建てる者たちの捨てた石。

それが礎の石になった。

これは主のなさったことだ。

私たちの目には、不思議なことである。

                新約聖書マタイ2142

 

 

 

 捨てた石、これは、イエス様のことです。

家を建てる者たちとは、宗教家たち。

 

 イエス様は、旧約聖書で預言されていた通りに、私たちの救いのためにメシヤとして人の姿でお生まれくださいました。

ですが、すべての人々に受け入れられたのかというと、全く逆です。

当時宗教界の中心にいた人々は、自分たちこそが一番偉いのだと勘違いした教えでメシアであるイエス様を認めず、あれは偽物だと逆に迫害を行いました。

 

 旧約聖書の時代から、多くの人々がメシヤの到来を待ち望んでいました。

宗教界の人であれば、誰もがメシヤが現れることが預言されていることは知っていました。なのにイエス様を受け入れませんでした。

 

 イエス様は多くの不思議な御業を行いました。

病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、死んだ人までも生き返らせました。

イエス様のほかにはだれ一人できない御業をたくさん行いました。

それができたのはイエス様が人として生まれなおしてくださる前は、父なる神のたった一人の子供であったからです。

 

 イエス様には力がありました。

ですがイエス様はその力を自分の権力を広げるためには用いませんでした。

むしろ、ご自身が弾圧され、迫害され十字架にかかられる時も何一つ反論することなく、十字架にかかられました。

 

 イエス様を訴えた人々の証言は全くでたらめで食い違っていました。それはイエス様が訴えられるようなことを何一つしてこなかったから、嘘の訴えであったからでした。ですが宗教家たちは自分たちよりも力のあるイエス様を赦すことができませんでした。どんな方法でもよい、とにかく邪魔なイエス様を殺したいという思いでした。

本来は最もメシヤであるイエス様をお迎えするべき立場であったイエス様を十字架にかけて殺しました。

 

 イエス様は逃げることも戦うこともできました。

ですがそうしませんでした。

それは、私たちのためです。

 

 イエス様がこの世に人としての姿を持ってお生まれくださったのには一つの目的がありました。

それは、ご自身の体を私たちの罪の贖いのためにおささげくださるという目的です。

どうしてそんな必要があるのか、というと、人は誰でも罪がたくさんあって、贖いがなければ誰一人天の御国に入ることができなかったからです。

 

 神は私たちが救いを受けることができるために、私たちの罪を身代わりとして受けてくださるように、イエス様を人の姿として送ってくださいました。

だからイエス様は、何一つ抵抗することなく、黙ってご自身の歩むべき道、十字架にかかってくださったのです。

 

 イエス様は宗教家たちに見捨てられました。

ですがイエス様は真実のメシヤでした。

イエス様の肉体は十字架の上で葬られましたがイエス様の私たちのための贖いは成し遂げられました。

 

 今、私たちは、イエス様によって天の御国に入ることのできる道が開かれました。

その道は二千年前からずっと開かれています。

一度は捨てられた石であるイエス様。

そのイエス様が本当の礎となられました。

 

 命をささげて贖いを成し遂げてくださったイエス様に感謝いたします。

平成30923

善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

新約聖書ガラテヤ69

 

 

 

 

 

 9月も半ばとなり、少しずつ、秋めいてきました。

今年の夏は7月の猛暑に始まり、集中豪雨、台風、地震と、様々な災害が起こりました。

 被害を受けられた皆様方にはお見舞い申し上げます。

 

 何か災害があると、それは、何かの因果のようにとらえる人がいます。

ですがそれは当たっていません。

その被害を受けられた人たちに、何か落ち度があったわけでは、決してなく、たまたまその地域に災害が発生したということです。

 

 同じように私たちは、まじめに生きていても、いつも得をするというわけでは、ありません。

むしろ正直者は馬鹿を見るという言葉もあるように、どうして?といったことも起こります。

 

 ならば、ずるく生きたほうが得なのかというと、決してそうではありません。

正直に、善を行なうのが良いのです。

なぜかというと、神は生きておられるからです。

こんなこと、まじめにやってもやらなくても、誰も見ていないのでは、といったことは多くあるでしょう。

そう、周りに誰もいなければ見ている人はいません。

ですが、見ておられる方がいらっしゃるのです。

それは、神様です。

神様は、私たちに気付かれない場所、隠れた場所で私たちのことを見ておられます。

 

それは、行いだけではありません。

私たちの心のうちまでも、見られているのです。

私たちは物事がうまくゆかなくなると、すぐに心が折れてしまいます。

ですが、そんな時も、イエス様はご覧になっておられるのです。

私たちが人知れず、良い種をまいたところには、やがて芽が出て、成長すれば、花や実を結ぶこともあります。

 

 神がそのよい行いをご覧になっておられるからです。

私たち自身は、些細なことと思って忘れてしまっていても、神は、ずっと覚えていてくださいます。

すぐに良いことがあるわけではありません。

神の時があります。

ですが、そのまいた種から、やがてよい物が現れています。

神は、生きて働いてくださいます。

 

 神の愛しておられるあなたが、神の喜ばれることをした。

そのほんの小さな出来事は、母親が、子供の小さいころのことをいつまでも忘れないように、私たちのことをいつまでも、喜んでくださいます。

 

 神の豊かな愛が、いつまでも私たちの上に注がれていることを感謝いたします。

平成30916

わたしのところに帰れ。そうすれば、

わたしもあなたがたのところに帰ろう。

―― 万軍の主は仰せられる。 ――

旧約聖書 マラキ37

 

 

 

 私たちは迷いやすい者です。

いつも正しい道に歩めるものではなく、感情や周りの環境に流されて、思いもよらない方向へ進んで行ってしまうことがあります。

そんな時、神はすぐに私たちをさばきません。

広い牧場にいる羊が迷い出ても、すぐに追い立てません。

私たちが進みたいように任せてくださいます。

 

 だけど私たちが迷い出てしまったとき、私たちは守りを受けることができません。

そのことを知った時、私たちの進むべき道は、元来た道を引き返すことです。

そのまま自分勝手に進む道ではありません。

気付いた時、悔い改め、神の御もとに帰ることです。

神は迷い出た私たちを責めたてません。

そればかりか、私たちが帰ることを待っておられます。

 

 「私もあなたがたのところに帰ろう。」 とおっしゃってくださいます。

神は今日も待っていてくださいます。

あなたのことを愛しています。

あなたが神の御もとに帰るとき、神は優しく迎えてくださいます。

神は決してあなたのことを見放されたわけでもなく、あなたのことを嫌いになったわけでもありません。

あなたのことを待ち続けていてくださるのです。

 

 イエス様の愛が深く、変わることなく注がれていることを感謝いたします。

平成3099

しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

新約聖書 使徒行伝9章15節

 

 

 

 

イエス様がアナニヤに示された言葉が、今日の御言葉です。

あの人とは、後に伝道者となるパウロのことです。

その時パウロはまだイエス様を信じていませんでした。

ですが神はすでにパウロをイエス様を伝える器として選んでおられました。

 

 そのころまで、ユダヤの人々は自分たちに与えられている神からの教えを外国の人に伝えようとはしませんでした。

この教えは、神に選ばれた自分たちだけの教えとして大切にしてきました。

 

 ですがイエス様が来られ、新たな教えが始まりました。

それは、死んだ後、天の御国に入ることのできる道を開かれる私たちにとって、最も大切な教えでした。

しかも、その教えは、初めからユダヤ人だけに限られたものではありませんでした。

パウロを用いて、異邦人、すなわち外国の人々にも宣べ伝えてゆくことがイエス様によって備えられていました。

 

 私たち日本人にもその福音は今、伝えられています。

そして、私たちも救いの道、天の御国へつながる道を歩ませていただくことができるようになったのです。

 

 その道は今も開かれています。

イエス様によって開かれています。

素晴らしいご計画を持ってくださいましたイエス様に、感謝いたします。

平成3092

恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で探すのですか。

ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。

人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない。と言われたでしょう。」

女たちはイエスのみことばを思い出した。

新約聖書ルカ24章58

 

 

 

 

イエス様はローマ兵にとらえられ、十字架につけられその若い命を失いました。

このことが歴史的な事実です。

ですが、イエス様はそこで終わりではありませんでした。

ご自身で生前から離されていたように、3日目によみがえられました。

それは、イエス様が私たちただの人間とが違う方、神のひとり子であったからです。

 

 マリヤから、聖霊によって宿り、人間の赤ん坊として生まれ33年半の生涯を人として過ごされました。

ですが、人としての生涯を終えたとき、再び、神のひとり子として復活されました。

イエス様はすべての人の罪を背負うため、人と同じ姿で生まれてくださいました。

牛が人の罪の身代わりになることができないように、人の罪を背負うためには人としてお生まれになる必要があったからです。

 

 イエス様は、神のひとり子ですから、罪に満ちた世界をすべて消滅させ、新たに人を一から育ててゆくこともおできになる方でした。

ですがそうはなさらず、ご自身が人として、罪を負い、罪に縛られた私たちを罪から解放してくださるために、人としてお生まれになってくださいました。

 

 イエス様はご自分がどのような運命を歩んでゆくかをご存知でした。

ご自身が十字架につけられて死ぬことを知っていて、それでもそれがご自分の成し遂げるべきことであると、その死を受け入れてくださったのです。

 

 イエス様の死は、2000年前の出来事です。

ですがその死は、イエス様を信じた私たちすべての人の罪を拭い去ることができるのです。

イエス様は、3日目によみがえられ、その後も、ずっと生きてくださっています。

私たちのそばにいて、私たちを守っていてくださいます。

死んだ神ではなく、今も生きておられる神なのです。

 

 あなたの上にも、イエス様の救いが起こされますように。

そしてイエス様が与えてくださる、罪の赦しを受けることができますように。

イエス様の愛が、あなたの上に届くことができますように。

平成30826

そのとき、森の木々も、主の御前で、喜び歌おう。

確かに主は地をさばくために来られる。

旧約聖書歴代誌Ⅰ 1633

 

 

 

私たちの知る木は、いつも静かにたたずんでいます。

昔から同じ場所にずっとあります。

かといって生きていないのかと思えばそうではなく確かに生きています。

屋久島にある縄文杉などは、私たちよりはるかに昔、3000年近く前から生きているものもあるようです。

 

ですが、気は、静かにたたずんでいます。

話しかけても答えてくれません。

しかし、

『そのとき、森の木々も、主の御前で、喜び歌おう。』

とあります。

どうしてか?

それは、木々も私たち人間と同じように神によって創られたものだからです。

何かの偶然でできたものではありません。

自然界や動物、空の鳥、魚や虫にいたるまですべてのものは神によって創られました。

 

人間も進化の過程を経て今の姿になったわけではなく、初めから、人間として作られました。

なのに、それを忘れてしまっているのです。

 

森の木々は覚えています。

お互い、会話をするわけではありませんが、神がその木々を創られたことを知っています。

そして神を喜ぶだけでなく、神を賛美する歌までを歌います。

 

地上のものは初め、神によって創られました。

競争するためでもなく奪い合うためでもなく、喧嘩するためでもありません。

お互いに愛しあうように神がつくられました。

そしてその命の源の大いなる神を賛美していました。

 

森の木々も喜び歌います。

私たちもきっとそうできるはずです。

私たちの心に本当の創り主の神を見上げる心が戻ってきたとき、私たちの心も喜び歌うことができます。

 

神の愛を思い出すことができますように。

神の愛が満ち溢れますように。

神の創られた初めの愛に立ち返ってゆくことができますように。

 

森の木々も、動物も人も魚も鳥も、すべてのものが神をほめたたえることができるようになりますように。

神の愛が豊かに満ち溢れてゆきますように

     平成30819