50歳の手習い、ライブバーを開店してみた

50歳の手習い、ライブバーを開店してみた

55歳にして、安定収入を捨て、ライブバーを開店。
これまでの人生や店の運用状況を赤裸々に綴っていきます。

Amebaでブログを始めよう!

大腸憩室炎で入院することになった私は3日間、点滴を打ち続けることになる。

 

午前中に打合せをした社長がインフルエンザにかかったこともあり、個室に隔離された。

 

結果的にインフルエンザには感染していなかったが、個室だったおかげで点滴を打ちながら、のんびり仕事もこなすことができた。

 

その月、会社の10周年イベントを行う予定になっていた。

 

司会者との打ち合わせ日程のみ決まっていたが、

社長や役員からは明確に当日の仕切りの指示は出ておらず、総務部門が段取りの準備をしている様子もなかった。

 

最終的に私におはちが回ってくるのが明らかだったが入院で動けない身。

打合せの日までに退院できるかも微妙な状況。

 

打合せ日には点滴も取れたため、取り合えず、外出して打合せのみ出ることにした。

総務部門、役員も出席すると思いきや、打合せは私と社長のみ出席・・・・・

 

うーん・・・・・・

 

退院後、仕方ないので、社長の意向をヒアリングし、タイムスケジュールと役割分担表を私が作成した。

 

社内から、会場までは徒歩5分程度の場所だったが、運ぶ荷物がそれなりに多かったので、隣の駐車場にあるTimesレンタカーを使用する旨、社長に告げた。

 

2時間程度のレンタルで3000円程度。

社長に許可を得るようなものでもないと思ったが、何故か社長が使用を渋る。

 

ステロイドパルスでの入院及び今回の憩室炎での入院で体力が相当落ちていることもあり、力仕事はその辺の女子以下の力しか出せない。

社員を使えるとはいえ、少しは私自身も手伝わなければならない。

 

面倒だったので、自分の車を使うことにした。

 

この一連の出来事で、最終的に退職を決意した。

 

これ以降は、自分自身が仕事を続ける為の会社の対応を期待ができるものはないと判断し、仕事も無理のない範囲でこなす事にした。

 

そういった働きぶりが会社にも伝わったのだろう。
年末に社長から実質上の降格を告げられた。


表向きは新事業を推進する上での社長直轄の事業推進室を作るのでその責任者という肩書だったが、実質上、部下はいなくなった。



その際に、少ししたら、自営で飲み屋でも開くということを告げた。

会社の事業としてやればいいじゃないか?

と社長は言ったが、
会社としての利益を稼げるような形でやるのは体力的に無理なので一人でやるということを伝えた。

そして、このころから本格的に物件探しを始めた。