ノアの箱船
ノアの箱船の話はクリスチャンでなくとも、何となく聞いたことがあるだろうし、その内容についても何となく知っているだろう。洪水伝説というのは、世界各地でも様々な形で存在しているので、おそらく大規模な洪水があったというのは事実である可能性が高い。それを起こしたのが「神」であるのか、超自然的な何かなのか、それとも地質学的気象学的な一大イベントなのか、どのように解釈するかは人それぞれであろう。なお一人のキリスト者として、私はノアの箱船の話を信じている。すなわち地上に蔓延する悪意に満ち、悪を行う人々を見ているうちに、神は人類を大雨によって滅ぼしてしまおうと考えたのだが、ノアに命じて、当時としては大型の船(但し、動力などは備えておらず、要するに水に浮かぶだけのもので、映画「2012」に出てくるようなものではない……)を建造させ、ノアとその一族、および各種の動物のいのちを救出させたというものである。
さて、何でノアとその一族は救われたのであろうか。
先日、新聞の社説欄で茨木のり子という詩人の「水の星」という詩が一部引用されていた。ちなみに茨木のり子が誰だか知らない。社説で初めて聞いた名前である。そもそも詩には興味がないもので。
引用されていた一節はこうである。
「すさまじい洪水の記憶がのこり/ノアの箱舟の伝説が生まれたのだろうけれど/善良な者たちだけが選ばれて積まれた船に/子子孫のていらくを見れば この言い伝えもいたって怪しい」
「子子孫のていらく」まぁ、それは納得できる。確かに、神は地上を洗濯しようと大洪水を起こされのだあるが、右を見ても、左を見ても、上を見ても、下を見ても、前を見ても、後ろを見ても、悪意や悪業は世に満ちている。どうやら洗濯しても垢は落ちなかったようだ。ノアの時代の悪がどれほどだったのかは分からないが、今の時代も洗濯された方がよいのではないかと思えるくらいだ。
ところで聖書的な観点から見たら、「善良な者たちだけが選ばれて」というのは、間違っているだろう。確かに、聖書には「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。」(旧約聖書・創世記6章)と書いてある。重要なのはノアが正しい人かどうかということよりも、どうしてノアが正しい人であったかということである。それは「ノアは神とともに歩んだ」(同)からである。ついでに言うと、「正しい人」と言われたのはノアであって、彼の家族ではなかった。また「きよくない動物」も救助の対象となっている。すなわちノアたちは善良だから助かったわけではない。神の哀れみによって、ノアと家族、動物たちが救われたに過ぎないのだ。ノアが善人であったからというのが理由ではないだろう。
ちなみにノアであるが、洪水の後の世界で、あるとき泥酔して素っ裸で眠ってしまい、息子たちに醜態をさらしてしまったことがある。いかに善人と言われた人でも、誰でも汚点のひとつやふたつあるものである。なおさら、善人だからという理由で救われるという考えは成立しないであろう。
さて、何でノアとその一族は救われたのであろうか。
先日、新聞の社説欄で茨木のり子という詩人の「水の星」という詩が一部引用されていた。ちなみに茨木のり子が誰だか知らない。社説で初めて聞いた名前である。そもそも詩には興味がないもので。
引用されていた一節はこうである。
「すさまじい洪水の記憶がのこり/ノアの箱舟の伝説が生まれたのだろうけれど/善良な者たちだけが選ばれて積まれた船に/子子孫のていらくを見れば この言い伝えもいたって怪しい」
「子子孫のていらく」まぁ、それは納得できる。確かに、神は地上を洗濯しようと大洪水を起こされのだあるが、右を見ても、左を見ても、上を見ても、下を見ても、前を見ても、後ろを見ても、悪意や悪業は世に満ちている。どうやら洗濯しても垢は落ちなかったようだ。ノアの時代の悪がどれほどだったのかは分からないが、今の時代も洗濯された方がよいのではないかと思えるくらいだ。
ところで聖書的な観点から見たら、「善良な者たちだけが選ばれて」というのは、間違っているだろう。確かに、聖書には「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。」(旧約聖書・創世記6章)と書いてある。重要なのはノアが正しい人かどうかということよりも、どうしてノアが正しい人であったかということである。それは「ノアは神とともに歩んだ」(同)からである。ついでに言うと、「正しい人」と言われたのはノアであって、彼の家族ではなかった。また「きよくない動物」も救助の対象となっている。すなわちノアたちは善良だから助かったわけではない。神の哀れみによって、ノアと家族、動物たちが救われたに過ぎないのだ。ノアが善人であったからというのが理由ではないだろう。
ちなみにノアであるが、洪水の後の世界で、あるとき泥酔して素っ裸で眠ってしまい、息子たちに醜態をさらしてしまったことがある。いかに善人と言われた人でも、誰でも汚点のひとつやふたつあるものである。なおさら、善人だからという理由で救われるという考えは成立しないであろう。