文学賞とか | あるキリスト者のつぶやき…

文学賞とか

私は芸能界に疎いから、歌手だの俳優だのといった有名人のことを言われても誰が誰なのかさっぱり分からないが、なんでも水嶋ヒロという元俳優がポプラ社小説大賞を受賞したとか。水嶋ヒロさんというのが誰なのか全然分からないし、ポプラ社なんていうのもあまり聞かない出版社だなぁと思っているのだが、一部ではいわゆる「出来レース」ではないかとの噂も囁かれている。

まぁ、出来レースなら出来レースで、最近もっぱら電子書籍等に圧されて斜陽気味の出版業界が小説を書いてみた元芸能人に見つけて、文学賞を与えることによって、出版社としての認知度を上げることで、書籍の売り上げの向上を狙っているとしたのなら、あまり公平な手法ではないにしても、冷静に考えればビジネスのあり方のひとつとして、それもありなのかもしれない。出版社側にとっても作家側にとってもお互いに利することが多いのだから、そうなったとしてもやむを得ないだろう。出版社とはいえ、所詮は営利目的の集団である。慈善団体でも公共団体でもないわけだから、業績と公平さを天秤に掛けて業績の方が重要となったら、そちらに力を注いでも誰も文句は言えまい。

しかし、陰で言われているような出来レースなどではなく、本当に水嶋ヒロさんという人が、本人の才能と実力で大賞を取ったのであれば、それはそれで好みに合う合わないは別としても、認めるべきであろう。考えてもみれば、作家というのは、才能と実力さえあれば誰でもなれるものである。学歴もいらないし、資格もいらない。年齢も関係なければ、性別も国籍も関係ない。その人の書いたものが認められさえすれば良いのである。まぁ、考え方によっては「作家」に価値があるのではなく「作品」に価値があるわけだが。もちろん、作家の側からすれば、本人が認知されるよりも、自らの作品が認められることの方が喜ばしいだろう。

そう考えると、俳優が作家になっても不思議ではない。もしかしたら、作家としての才能があったにもかかわらず、何かのはずみで俳優になってしまったということもあるだろう。いずれにせよ、こればかりは時間が証明してくれるに違いない。才能が本当にあるのであれば、長い年月にも渡って、それこそ本人が没した後でも作品は残るだろうし、出来レースであったとしたら、すぐに廃れて人々に憶えられることもないだろう。