手書き
最近何にしても物を書くときは、タイプするのが普通になっている。ちょっとしたメモ程度なら手書きだけれども、そうでなければ、基本的にタイピングである。こうやってブログを書いていても、当然ながらPCのキーボードをたたいているわけだ。一昔前の手書きの日記という概念とは、いろいろな意味で違い過ぎるような気がする。
しかし前々から思っていることだけれども、手書きをしなくなったら、漢字が書けなくなってしまった。これは考えてみればちょっと問題である。手書きをしないということは、字の書き方どころか、どのような字の形であったかを忘れてしまうということだ。以前憶えていたことを忘れてしまうくらいだから、タイピングばっかしていては新しい言葉を記憶しようというのは、なおさら難しいことなのかもしれない……なんて考えてみるのだけれども、言葉を使うということと、字を書くということは似て異なるものなのかもしれない。はっきりとした答えは分からないのだが。
しかし確かなことは字を書けば、字を忘れないでいられるということだろう。だったら、言葉を書けば、その言葉を忘れないということかもしれない。語彙力を増やしたいのであれば、やはり読むばかりではなく、書くことも重要なのではないだろうか。この場合の書くというのは、もちろん自身の手で書くということである。そうした方が、言葉を忘れないで済むのではないだろうか。
なーんてことをあれこれ考えていると、漢字の書き方を忘れても、漢字の読みや意味は忘れていないというのもまた事実である。すると、人はその「形」を忘れるだけであって「意味」は一度憶えたら忘れないということだろうか。だったら、無理になんでも手書きにする必要もないような。うーむ。
しかし前々から思っていることだけれども、手書きをしなくなったら、漢字が書けなくなってしまった。これは考えてみればちょっと問題である。手書きをしないということは、字の書き方どころか、どのような字の形であったかを忘れてしまうということだ。以前憶えていたことを忘れてしまうくらいだから、タイピングばっかしていては新しい言葉を記憶しようというのは、なおさら難しいことなのかもしれない……なんて考えてみるのだけれども、言葉を使うということと、字を書くということは似て異なるものなのかもしれない。はっきりとした答えは分からないのだが。
しかし確かなことは字を書けば、字を忘れないでいられるということだろう。だったら、言葉を書けば、その言葉を忘れないということかもしれない。語彙力を増やしたいのであれば、やはり読むばかりではなく、書くことも重要なのではないだろうか。この場合の書くというのは、もちろん自身の手で書くということである。そうした方が、言葉を忘れないで済むのではないだろうか。
なーんてことをあれこれ考えていると、漢字の書き方を忘れても、漢字の読みや意味は忘れていないというのもまた事実である。すると、人はその「形」を忘れるだけであって「意味」は一度憶えたら忘れないということだろうか。だったら、無理になんでも手書きにする必要もないような。うーむ。