案の定 | あるキリスト者のつぶやき…

案の定

鳩山と小沢がそれぞれ内閣と党のトップの座を退いた。やはり世間の大半が気にすることは、いわゆる「金と政治」のことらしく、この二名が辞任したことで、「金と政治」の問題に区切りがついたと考える人たちがいるようだ。たしかに「金と政治」の問題について言えば、真相が解明されていないから解決に至ったとは言い難いが、すくなくとも金に狡賢い者は表舞台から去ったわけだ。なるほど、そういうことならば、民主党の支持率が再度上昇したこともやむを得まい。しかし、これでは本当の問題がうやむやにされているのではないか。

確かに政治家は金に汚くないことが求められているのかも知れないが、しかし考えてもみれば政治なんて金が掛かるのはある意味当然のことだろう。政治に金が掛からないのであれば、私だって政治に参加することができそうなもんだ。ところが私には金脈も人脈もないから、選挙のたびに投票にいって、あとはブログで文句垂れるくらいである。政治家に金にクリーンを求めるのは、愚かしい。金を狡賢く使うことだって、必要な知恵だと思うんだけどなぁ。もっとも鳩山のように母親から毎月1500万の小遣いをもらって気付かなかったというのは、狡賢く使う以前の問題。ただの鈍いだけだと思うけど。毎月それだけ入金されていることを知ってて、それをうまく運用していたならば、多少はマシであったかもしれないけど、これでは自分の財布の管理すらできない馬鹿者である。

そうそう、それと庶民の視線とか国民の目線とかで政治を考えるなどと言う政治家もいるようだが、つーか大半の政治家が本音か建て前かは、いざ知らず、そう言ってるようだが、政治家にそんなことを求めちゃいけない。政治家たるもの、庶民より高いところから、広く見渡し大きな絵を描かなければならないのだ。庶民のように考え庶民のように行動する人間が、政治を行うなんて、そんな馬鹿げたことがあってたまるか。

ところが愚民は、政治家に金のクリーンで国民目線で物事を考えることを望んでいるのである。政治家以上に馬鹿なのは、そんな大衆だ。必要とあれば自らの手を汚しても、国を正しい方向へ導くのが政治家の役割ではないか。大衆に迎合し、八方美人に振る舞う政治など、私は求めない。こんな私は、きっと少数派なのだろうが。