信仰、希望、愛…とは言うけど
ひとまず日曜日は礼拝へ。本当はうだうだ寝ていたいところだけど、さすがにそれでは自堕落まっしぐらな予感がするので、ひとまず教会へ。クリスチャンは楽じゃない。楽をしたけりゃ、クリスチャンになんかなるもんじゃないって思うんだけれど、信仰とは楽とか楽じゃないとかとは、別の次元の話である。だから、不精な私でもクリスチャンをやっていられるんだろう。もちろん、こんなことをおおっぴらに言ってる時点で、模範的なクリスチャンでないのは明白だが。
まぁ、今まで私が書いてきたことを読んだことのある人ならば、私が聖人君子でないことは確かである。むしろその反対というのがふさわしいくらいだ。そんな私でもクリスチャンになれるということを考えれば、裏を返せば、どんな人でもクリスチャンになることができるのである。まぁ、そう考えてみれば、私の存在意義もあながち無駄なものではないだろう。
さて今日の礼拝メッセージは第一コリントの13章からである。愛は寛容であり、云々って書いてある箇所である。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」って書いてあるけど、これを読んで思うことは、まずまず私には愛なんてものはないってことだろう。私のどこにも寛容なところもなけりゃ、親切なところもないだろう。しょっちゅう自分より金のある連中のことを妬んでいるし。幸い自慢することもなけりゃ、高慢になる理由もないので、その部分はあっているかもしれないが。それでも愛と言うものが、これらの条件をもっているのであれば、少なくとも私はここに書いてる「愛」というのはもっていない。
たとえ芥子粒ほどの信仰をもっていても愛がなければ意味がない、って感じだが。なんという…そんな信仰すら持ち合わせていないし。希望とか言われても、クリスチャンの模範的回答であれば、この世には艱難があっても、やがては天の御国(つまりは天国のことだ)へ行くことって具合なんだろうけど、私の希望は世俗的なもんで、現世で物書きになって、ある程度裕福になって、GMのHummerでも乗り回して年に一度は海外でも国内でもいいから、旅にでてゆっくり過ごすというものである。あの世での希望よりもこの世での希望の方が、全然励みになるし。
そもそも信仰も希望もろくすっぽ持ち合わせていない私には、到底「愛」なんて持つことができないってことだろうか…
…だからどうした。それでもいいじゃないか。聖人君子になる必要もないし、不良クリスチャンのままでOKじゃん!イエス・キリストを信じているのであれば、それで十分だ!
まぁ、今まで私が書いてきたことを読んだことのある人ならば、私が聖人君子でないことは確かである。むしろその反対というのがふさわしいくらいだ。そんな私でもクリスチャンになれるということを考えれば、裏を返せば、どんな人でもクリスチャンになることができるのである。まぁ、そう考えてみれば、私の存在意義もあながち無駄なものではないだろう。
さて今日の礼拝メッセージは第一コリントの13章からである。愛は寛容であり、云々って書いてある箇所である。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」って書いてあるけど、これを読んで思うことは、まずまず私には愛なんてものはないってことだろう。私のどこにも寛容なところもなけりゃ、親切なところもないだろう。しょっちゅう自分より金のある連中のことを妬んでいるし。幸い自慢することもなけりゃ、高慢になる理由もないので、その部分はあっているかもしれないが。それでも愛と言うものが、これらの条件をもっているのであれば、少なくとも私はここに書いてる「愛」というのはもっていない。
たとえ芥子粒ほどの信仰をもっていても愛がなければ意味がない、って感じだが。なんという…そんな信仰すら持ち合わせていないし。希望とか言われても、クリスチャンの模範的回答であれば、この世には艱難があっても、やがては天の御国(つまりは天国のことだ)へ行くことって具合なんだろうけど、私の希望は世俗的なもんで、現世で物書きになって、ある程度裕福になって、GMのHummerでも乗り回して年に一度は海外でも国内でもいいから、旅にでてゆっくり過ごすというものである。あの世での希望よりもこの世での希望の方が、全然励みになるし。
そもそも信仰も希望もろくすっぽ持ち合わせていない私には、到底「愛」なんて持つことができないってことだろうか…
…だからどうした。それでもいいじゃないか。聖人君子になる必要もないし、不良クリスチャンのままでOKじゃん!イエス・キリストを信じているのであれば、それで十分だ!