久々に下書きなんぞ | あるキリスト者のつぶやき…

久々に下書きなんぞ

エッセイの下書きが終わった。これから見直して清書しなければ。勢いにまかせて書いたところがあるので、「?」と思うところが多々あるかもしれないが、ここに記録として残しておく。あぁ、あとはちから誌のためにエッセイを書かなければ。でも、今夜はやめておこう。

イエスはさらに弟子たちに語って言った。
「世間はあなた方を憎むことでしょう。しかし、覚えていなさい。世間は先に私を憎んだのです。もしあなた方が世俗の世界に属するのであれば、世間はあなた方を歓迎することでしょう。しかし、私があなた方を選んだのです。それだから、この世の中が私を憎んだように、あなた方をも憎むでしょう。」
どう考えても励ましになるような言葉ではない。むしろ、イスラエルの王、救世主としてこの地上にやってきたのだから、それ相当の扱いを受けて然るべきであったであろうし、弟子たちも救い主に選ばれた者として、この世で歓迎こそされても、迫害されるようなことは考えていなかったであろう。イエスは弟子たちが後々、苦労することのないように、彼らが心の準備をしておくことができるようにと、このようなことを語ったのかもしれない。
そのようなことを言われてしまっては、さすがの弟子たちも気が滅入ってしまったことだろう。アタマで理解することはできたとしても、気持ちとしてそれを受け入れることはなかなかできまい。イエスはそのような彼らのことを励ますかと思えば、余計に彼らの気を落ち込ませるようなことを言った。「もうすぐ私は、私をこの地上に遣わせた方のもとに帰ります。」
どのような形でそれが現実のものとなるかは、弟子たちにはまだはっきりと分かっていなかったであろう。しかし、彼らも感じていたであろうことは、イエスが父なる神のもとに買えると言うことは、すなわち彼らのもとから去ってしまうと言うことであった。
世間から迫害されるだけでなく、師と仰いでいたキリストがどこか彼らの手の届かないほど遠くへと去ってしまうことを悟った弟子たちは、果たしてどのような気分であっただろうか。おそらく目の前が真っ暗であったことだろう。すべての希望が絶たれてしまったように感じたかもしれない。イエスも彼らの心の内を察していたようである。
「あなた方が悲しんでいることはよく分かります。しかし、本当のことを言いましょう。私がこの世界から去ることは、実はあなた方にとって益となることなのです。なぜなら、私が去ることで、こんどは助け主がやってくるからです。私がいつまでも、この世界にとどまるのならば、そのお方はやってこないのです。」
イエスは確かにこの世を去らねばならない。しかしだからと言って、弟子たちや彼を信じた人々をそのままにしておくことはしなかったのである。彼自身の代わりとなって、人々を助けるための助け主がやってくることを彼らに伝えたのだ。イエスはその助け主についてこう言っている。「その方が来ると、罪について、義について、またさばきについて、この世のあやまちを明らかにされるでしょう。」
罪についてとは、すなわち人々がイエスのことを信じることなく、彼を退けたことを意味する。また義についてとは、イエスがこの世を去って、父なる神のもとへ行くことを意味する。そして、さばきについてとは、この世の支配者が、すでに裁かれていることを意味している。
しかし、何よりもこの助け主が優れているのは、この助け主とは「真理の御霊」であり、イエスを信じる人々を真理へと導くからである。なぜなら御霊は自分自身のことを語るのではなく、神が語ったことをそのまま人々に伝えるからだ。
今となっては、地上を歩くイエスの姿をみることはないが、それでも、助け主は今でも私たちを日々見守り、支えて、導き、私たちのそばにいてくださるのである。