あわれむ神、いつくしむ神 | あるキリスト者のつぶやき…

あわれむ神、いつくしむ神

五連休の後、仕事に行くと、曜日の感覚が鈍くなってしまう。今日が何曜日だか分からなくなってしまった。そうか、今日はまだ火曜日か。明日は水曜日。もう今から週末が恋しくなってしまう。まぁ、週末はそれはそれで大変なのだけれど、会社の仕事よりも家の用事をする方が楽しいのは否めない。


さて、今夜も聖書を読んでいこう。ローマ書8章を見終わったので、今夜は9章。


ところで、9章の書き出しの部分が理解できないというか、作者であるパウロが何を言わんとしているのかよく分からないのであるが、あまり細かいところは気にしないでおこう。分かるところ、気付いたところを見ていくようにしたい。


「神は…『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。」 (15節)


こう書かれているところを読むとちょっと複雑な気持ちになる。クリスチャンであるなら、これは理解できることであるが、果たして信仰を持たない人がこれを読んだらどう思うだろうか。もしかしたら、わがままな神、傲慢な神と見えるかもしれない。


もっともこの箇所だけを読むと、そのように見えても不思議ではないように思える。好きな人は好き、嫌いな人は嫌い。嫌いな人を好きになろうとは思わない。そんな神の姿が見えてしまうからだ。


しかし、どうだろう。改めて考えてみると、神にとっては憎むべき人とはいないのではないだろうか。神が憎むべきは罪であって、人ではないのではないか。だから、人を罪から解放するためにキリストを遣わしたのではないか。


「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」 (16節)


神がなぜキリストをこの世界に遣わしたのかを考えると、この言葉の意味がよく分かる。人の罪、そして罪の結果としての死からの解放というのは、私たちの善行を積むというような努力や良くなりたいというような希望によって得られるものではないということだ。それは、ただ神のあわれみによってのみ、人は得ることができるのだ。そして、そのあわれみとは、すべての人に等しく与えられているのである。


神はやはり公平なのである。