ヨハネの福音から
そして、金曜の夜中は例によって例のごとく、週報向けのエッセイを書くのです。
とりあえず下書きはできたので、これから見直し。何時に寝れることやら。
羊のたとえ話をした後のある日のこと、イエスが神殿の中を歩いているとき、ユダヤ人が何人かイエスのところへやってきて、こう聞いた。「あなたは本当に救い主であるキリストなのですか?もしそうであるなら、はっきりとそうおっしゃって下さい。」
おそらく彼らはイエスの話や人々が噂することを耳にしていたのだろう。しかし、どこかでイエスを信じるだけの自信がなかったのかもしれない。本当にこの人物が自分たちが待ち望んでいた救い主であるのかわからなかったのであろう。彼らは十分な知識があったには違いないが、知識だけでは確証が得られなかったのであろう。それならば、本人の口から直接そのことばを聞こうとしたのだろう。
しかし、そのような彼らにイエスは簡単な答えを与えなかった。「今までさんざん話して聞かせたではありませんか。それでも、信じなかったのはあなた方なのです。私が父なる神の御名によっておこなってきた奇跡をあなたも見聞きしたではありませんか。これ以上、何を語ればよいのですか。」
思えば、記されているだけでも、イエスは多くの奇跡を行ってきた。水を葡萄酒に変えたこともあれば、五千人もの群衆を五切れのパンと二匹の魚で、その空腹を満たしたこともあった。水の上を歩いて渡りもすれば、寝たきりの人や盲目の人を癒しもした。今の時代、これだけの奇跡を起こす人がいれば、すぐにメディアに取り上げられ、世界の知るところとなるであろう。もっとも、世界に奇跡が伝えられたところで、人々が信じるかと言えばそうでもあるまい。なぜ信じないかといえば、それは私たちの理解することの範囲を超えているからではないだろうか。人というのは、その知識で縛られるとも言えよう。ましてや、科学が進歩した現在に生きる私たちには、なおさら奇跡というのは理解することができないのではないだろう。生まれつき目の見えない人が、泥を塗られただけで目が見えるようになった、などと聞かされても「そんなことあるわけないじゃないか。目から入った光が信号となって脳に届くというのに、泥を塗っただけで切れた神経がつながるわけがない。」単純に奇跡がおこって、それが奇跡だ!と感じることのできる人は、よほど信心深い人であろう。そして、ここで書かれているユダヤ人たちも、イエスという名のガリラヤのような片田舎出身の大工の倅が神の遣わされた救い主だとは、それこそ彼らの理解の範囲を超えていたのだろう。
イエスのことを信じ切ることのできない彼らに、イエスは最後にこう言った。「私と父なる神とはひとつなのです。」
結局、イエスは彼らに自分の正体を明かしたのである。ところが、彼らがその場でひざまずき、イエスの前に平伏して礼拝するかと思いきや、石を投げつけようとしたのである。以前にも書いたように、彼らにとっての石打とは子供の石の投げ合いではなく、相手が生き埋めになるほどに投げつけると言うことで、すなわち相手を殺す意図がなければやることはないのだ。「あなたが本当に神の子、救い主なのか教えて下さい」と下手に出てきて、それに答えたら、いきなり手のひらを返した態度にでるのだから、たまったものではない。
さすがにイエスもこれには怒ったのだろう。黙ってその場を立ち去らずに、彼らにこう聞いたのである。「今まであれほどの奇跡を行ってきたのに…一体何が気に入らないというので、私を石打にしようとするのか?」
「違う。貴様のやってきたことで石打ちにしようとしているんじゃない。貴様がただの人間でありながら、自らを神としたからだ!」
「私が、父の御名によって奇跡を行っていないのであれば、私を信じないでも構わない。しかし、もしそれらのことが父の御名によるものであれば、それらの奇跡を信じなさい。これらの奇跡は、あなた方が私が誰であるかを知ることができるようにと、行われているのです。」
イエスは、そう彼らに行った後、ヨルダン川を越えてヨハネが活動していた地方にしばらく滞在していた。そして、その地方ではヨハネがかつて語ったことばの故に、イエスを信じる者が多く出たのである。