ドンへ side
彼がうたうときは、一定のルールがあるようだった。でもそれは。施設のひとたちも、わからないらしくて
俺も。実際にうた声を聴いたのは、一度だけだ
何回目の訪問だったろうか。部屋にいなくて。探していたら。庭の隅に座りこんでいる、背中が見えた
何をしているんだろう...かすかに聴こえるうた声...アリアだろうか...いや、ちがう。野ばらだ。シューベルトの
そよ風にのって。透き通るようなうた声が、身体に沁みいるようだった
彼の目の前には、施設で飼われている大型犬が座っていて。にらめっこでもしているように、顔をつきあわせて。彼のうた声に聴きいっているのか、ふっさりしたしっぽがゆらゆらと揺れている
もう少し...近づこうとしたとき。ぱき。あ...小枝を踏んでしまって...ぱったりと、うた声が止んでしまった。あぁ...録音しておけばよかった...気づかれてしまったなら、しかたない
『ウニョクくん』
声をかけたけど。こちらを振りかえりもしないで。目の前の犬に抱きついて、顔を埋めてしまった。その背中をなでて
たった一回だけ
それだけで
俺は彼の声に囚われた
《つづく》
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