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劉備(りゅうび)

劉備について書こうとしましたが、曹操 と同じくたくさんありすぎて何を書けばいいか正直困りました。


にわとりのあばら骨


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にわとりのあばら骨


劉備は、後漢滅亡を受けて皇帝に即位し、蜀を建国した人物です。


『三国志演義』の主人公として信義に厚い聖人君子(せいじんくんし)のような人物として描かれています。


聖人君子とは、知識・徳望のすぐれた理想的な人物の意味ですが、実際はどうだったのでしょう?


劉備は自分を前漢第六代皇帝景帝(けんてい)の子・中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)の末裔


と主張していました。


しかしながら劉勝は120人以上の子を残しており、劉備の子孫の祖は漢朝への上納金がなかったため地位を


取り上げられたため系図もそこで止まっており劉備との系図のつながりを確認することは出来ないそうです。


皇族の末裔かどうかさておいても、それなりの家柄も経済力のあった曹操・孫権と比べ、草鞋を編み売って


暮らし生計をたてていた劉備が、蜀を建国するまでにのし上がれたのは何故なのでしょうか?


先日、興味深い本を読みました。


それによると劉備は、関羽・張飛・趙雲を率いた傭兵集団の長であり個人の戦闘能力も高く軍隊指揮能力に


優れた人物でしたが、その割にはよく負けています。


それは、劉備が拠点を確保するための名士(めいし)を陣営に持たなかったため占領地域の支配が安定せず


折角取った根拠地を失ってしまうことが原因というのです。


※名士・・・名声の高い知識人


しかし、諸葛亮がこの点を補い任侠的な結合関係で劉備と結びついた傭兵集団から、諸葛亮ら名士を中核と


する集団へと変容したことにより挙兵依頼、初めて荊州を根拠地として保有し、ついには蜀を建国するまでに


なったという話です。


このように名士を使いこなすことがこの時代には必要不可欠だったようです。


さて劉備の人間像ですが、聖人君子というよりも、弱い者を助け強い者をくじき、義のためならば命も惜しまない


といった気性に富んだ男気があり人情味のある親分肌の任侠風な人物だったようです。


私は正直言って、劉備は好きではありません。


というより聖人君子的な劉備が好きになれません。


と言うのも、呂布 が曹操に捕まった時に、劉備が曹操に言った言葉・・・


「丁原や董卓の時のように裏切られるかもしれませんぞ」


それに対して呂布はこう言います。


「こいつが一番信用できないのだぞ!」


その後、劉備は曹操の元から離れていくのです。


でも、『三国志演義』で任侠風に描かれていれば、ちょい悪で好きになっていたかもしれませんね。


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