関羽(かんう)
だけど今は 貴方への愛こそが 私のプライド 今井美樹「PRIDE」より
関羽は、劉備 の義兄弟で見事な髭をたくわえていたため「美髯公」とも言われています。
現在では、関羽は神格化され商売の神として世界中の中華街で祭られています。
高名な武将で武神として、また義理や信義に厚い人物だったこと、元は塩の密売業者で算盤を開発したという
伝説から主に商売の神として信仰され日本では、大阪、神戸、横浜に中央に関羽、右側に関平、左側に周倉を
祭った「関帝廟(かんていびょう)」があります。
関羽の忠節や義理堅さにまつわる話として有名な話があります。
曹操 が呂布 を破った後、曹操の元にいた劉備は、裏切り曹操と戦いますが敗れ袁紹の元に逃げ込みます。
劉備の妻子を守っていた関羽は、孤立し降伏します。
『三国志演義』では、このとき三つの条件を付けて降伏したとされてます。
・劉備の妻子に危害を加えないこと
・行方不明の劉備の所在が明らかになれば劉備の下に戻ること
・曹操にではなく曹操が擁立していた後漢の献帝に降伏すること
曹操は、関羽を手厚く礼遇しますが関羽は功績を立てて曹操に恩返しをしてから、劉備の下に戻ろうと考えて
いました。
曹操と袁紹との戦い「官渡の戦い」で関羽は、袁紹の配下の顔良(がんりょう)を討ち取ると、下賜された品々を
封印して袁紹の元に身を寄せていた劉備のところへ出奔します。
曹操はその義に感嘆し、追跡しようとする部下に対して追ってはならないと言い聞かせるのでした。
『三国志演義』では、曹操から唯一受け取った呂布が騎乗していた名馬・赤兎に乗り劉備の妻子を伴って劉備の
下に向かいますが、その際に曹操の黙認はありましたが関所を力ずくで突破します。
最後の関所を通過するときに、夏侯惇が関羽に追いつき一騎打ちを展開しますが、曹操の書状を持った張遼に
よって戦いは仲裁される「単騎千里を走る(千里行)」と呼ばれる話があります。
そんな関羽ですが、部下には優しい反面、プライドが高かった人物でもあったようです。
黄忠が同格の将軍に任ぜられたときには
「あんな老いぼれと同格か」
と不満を漏らしたそうです。
このプライドの高さが関羽の弱点だったと言われてます。
「赤壁の戦い」の後、劉備が益州に入ると関羽は荊州の守備を任され、曹操・孫権に睨みを効かせていました。
そんな折、孫権から関羽の娘に彼の息子との婚姻の申し入れがありましたが、関羽は使者をどなりつけて断り
孫権を怒らせてしまいます。
「虎の娘を犬の子にはやらん」
『三国志演義』ではこう言ったそうですが、そのためか曹操と孫権は同盟を結び両方から荊州は攻められます。
ついには、日頃から関羽と折り合いが悪く不満を持っていた麋芳と傅士仁に裏切られ呉の潘璋の部下の馬忠
に捕らえられ、斬首されるのでした。
関羽の首は、孫権の使者により曹操へ送られ、曹操は礼を持って関羽を葬ります。
そして劉備は、怒りのあまり呉に対して「夷陵の戦い」を起しますが、大敗を喫することとなります。