2年前の今頃は、緊急事態宣言が少しだけ解けた時期で、制限はあるものの1年半ぶりに行事が開催できるとあって、10月から12月の初旬に渡り、ほぼ毎週のように企画があった。


特別支援の教員時代、特に文化祭のある11月は慌ただしさの極みでした。


それから、2年後の退職した今。

あのとき、憧れていた「暇な時間」が手に入った。特に11月中旬の数日、家からあまり出られない事情も重なって、引きこもっていた。


私は時間を持て余していた。

あんなに、望んだ「暇」…

なのに、どんどん無気力になっていく。発信にも創作にも意欲が、湧かない。


忙しさに追われていたときの欠乏感とは真逆の位置。


時間がたっぷりあるという安心感ではなく、無感動な感覚。


???


💩のめぐりは悪くないのに。

何が起こっているのか?


時間をもてあました状態であっても、すべてが億劫になっていた。


そこで、💩以外の気がかりに着手し始めた。そうしたら、少しずつ意欲が戻ってきた。


歯科医に行って奥歯の状態を診ていただいたり、排水溝を掃除してみたり、領収書の整理をしたり。やらなきゃなぁと保留にしていた案件を片づけていく。


以前、よくひとりで教室の水拭きをしていたことを思い出して、あまり家ではしなかった雑巾がけをしてみたり。


思い起こせば、時間がなかったときも焦り出したら、身の回りの気がかりを片づけていた。


そうか!

時間は欠乏しても、もてあましても、極端に偏りすぎて「真ん中」じゃないということか!


いずれにしても、めぐりが滞っている状態なんだ。


時間も、お金も、すべてにおいて、もてあますほど手にしたいという望みは、もしかしたら私にとっては、欠乏と同じくらい苦しい状態なのかもしれない。


じゃあ、私の望みは?


時間もお金もちょうどよくめぐっているという安心感を感じたい。


いや、すでにめぐっているのかも。あとはその感覚を肚におとすだけなのだ。


めぐりの真ん中の位置に。