比叡山延暦寺で修行している仏教の僧侶は誰に仕えているのか | ヨハネのブログ

ヨハネのブログ

I am Japanese female Christian Masako
Katahira, age 66.

I stay at Kagoshima,Japan after 2-year-stay of Yerevan, Armenia from September 2022.
I love Jehovah God and the Bible.
I explaine Bible
prophecies in my
Yohane no blog.

 

The Hallelujah Chorus Lyrics - Handel's Messiah


 

 今回の記事では、日本の仏教と神道の各派の教えをざっと簡単に調べてみたいと思います。もちろん、ここですべての宗派をとりあげることはできませんので、今回はそのほんの一部を取り上げます。

  日本の仏教には、ふたつの流れがあるように見えます。仏教の二つの流れについて説明します。

 仏教のひとつの流れは、天台宗の最澄が作った滋賀県比叡山延暦寺の修行僧が興した浄土宗系と日蓮宗系の大乗仏教です。もうひとつは、真言宗の空海が作った和歌山県高野山で空海の作った金剛峯寺から出てきた密教系の仏教です。

 日本では浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などの大乗仏教が大勢を占めるようです。まず、滋賀県比叡山延暦寺で修行僧によってどんな修行が行われているのか、彼らは実際は誰に仕えているのかを聖書的に考慮したいと思います。

(1)滋賀県比叡山延暦寺

 平安時代の初期8世紀後半から9世紀初めの僧最澄が中国の唐に渡って、仏教を学び、帰国後、比叡山で、天台宗の開祖となりました。延暦寺(えんりゃくじ)は、現在の
滋賀県大津市にあり、比叡山全域を境内とする寺院群です。
663highland


 

0Enryakuji_Konponchudo

 

比叡山延暦寺



 

 


 延暦寺の修行者から、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた源信、浄土宗の開祖法然浄土真宗の開祖親鸞、日蓮宗の開祖日蓮などが出ました。

 


  比叡山の山内の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならないそうです。そして、住職になった人は自発的に十二年山籠もりをすることもできます。



 しかし、その十二年の行が許されるためには、ひとつの荒行が事前テストとして義務付けられているそうです。その行は、やはり浄土院にこもって鐘を2回鳴らして仏の名前のリストから3000の仏の名前のリストからひとつひとつ「ナームー、XXX(仏の名前)」と唱えて香とお花を捧げます。


 また、体を床に全部つけて、そして、立って、また体を床に折り曲げるという丁寧な礼拝を休むことなく繰り返します。それは、阿弥陀仏が修行者の前に現れるまで続けなければならないそうです。


 その現れる霊の姿は絵に書かれた姿ではなく三次元で光を放った色のついた姿でなければならないということです。そして、すでにそのような霊の姿を目撃した人にその現れを確認してもらって、合格となるそうです。

 聖書は、「サタン自身が自分をいつも光の使いに変様させている」と述べていますから、その光を放つ姿の霊は仏ではなく、悪霊です。(コリント第二11:14)



0light angel and demons
聖書によるとサタンは光の使いに扮し悪霊たちは義の奉仕者のふりをしている



 そのように霊が自分の前に現れ、霊に支配されると、体の中心から喜びが泉のように湧いてきて、周りのものがすべてキラキラと輝き、宇宙と一体になる感覚が湧きだしてくるそうです。ですから、それが悪霊であると気づかないで、悪霊に憑かれると、人はその霊との一体感を味わい深い喜びを感るようです。


 霊にとりつかれて、その霊との一体感と法悦状態を味わうということは多くの宗教に関連して聞かれる話です。ですから、わたしたちは単なる自分の感情だけに欺かれないようにする必要があります。

 

 


 そして、その神様と会うというテストに合格した人が12年間の山籠もりの行に挑みます。その間、最澄の遺体が置いてあり彼の絵画が飾ってある山の浄土院から出てはならず、そこで1人、あたかも最澄が生きているように毎日、食事を備え掃除、読経、礼拝などをしなければなりません。



 2017年まで117名の僧侶がそれを成し遂げたそうですが、それを成し遂げた人は僧侶たちからとても尊敬されるのだそうです。しかし、それに到らなかった26名の病死者と行方不明者がいるそうです。ある僧侶は、この求められている行をするために二十年を費やしました。


 しかし、まことの神が、そうした意味のない苦行を求めることは理性的に考えられません。愛の神が単に自分に食べ物を備え読経をするために信仰の人々が他の人から十年以上孤立することを求めるでしょうか。わたしたちは他の人々と交わったり、助けたりすることによって良いことを成し遂げることができるのではないでしょうか。

 また、まことの神が、基本的にご自分の崇拝者が病気になったり死ぬことを望むとは思われません。もっと大きな大義のために、自分の命を犠牲にするというのは、あり得ます。

 例えば、神風特攻隊は、気持ちとしては日本の人々を守るために、命を犠牲にしたかもしれません。わたしは、特攻隊が人を殺すために命を犠牲にしたことは、間違っていて悪いことだったと思いますが、そうして他の人々を命を守ったり救ったりするために、自分の命を犠牲にするというのは、利他的な部分があったのかもしれません。

 しかし、十二年の山籠もりにそこまでの大義や意義があるとは思えません。また、その神あるいは仏がまことの善なる神であるなら、あるいは意義があるかもしれません。しかし、その最澄とされている霊は本当に最澄の霊でしょうか。少なくとも、聖書的な見地からするとそうではありません。

 聖書は、「
自ら課した崇拝の方式」で、体を単に「厳しく扱うこと」は、「知恵の外見を有していますが」、「何の価値もありません。」と述べています。(コロサイ2:23)

 単なる苦行は、まことの神に近づくことにはなりませんし、それによって自分の欲望を制御することはできないでしょう。
その僧侶はまことの神ではなく、悪霊に長年仕えたことになります。

 


  わたしたちは、自分の仕えている神がまことの神かあるいは悪霊なのかちきんと見極める必要があると思います。またそのように12年間もの間、他の人との築き上げる交わりをしないのが、果たして建設的なことかどうか、それによって自分がより良い人になるか考えてみるべきだと思います。

 

 

「好相行」と十二年籠山行~宮本祖豊・天台宗延暦寺円龍院住職

 

" target="_blank">https://youtu.be/9jvsK798Lbs


The Hallelujah Chorus Lyrics - Handel's Messiah