聖書は、理解されることを意図されている本です。とりわけ、この終わりの時には、理解されることになっていました。そして、現代には、聖書の語句を検索するネットの機能や、さまざまな聖書翻訳を参照できるサイト、オンラインの古代の言葉の辞書があります。
それらの助けになるツールを用いれば、聖書は私たちが救いを得られるほどには理解ができることでしょう。今回はその点を説明したいと思います。
(1)神は最終的には聖書が終わりの時に理解されることを意図されている
エホバ神は、終わりの時の神の僕たちが、ご自分の聖書から十分の益を受けることを望まれています。ですから、聖書はとりわけ、終わりの時に理解されることになっています。
「ダニエルよ,あなたは終わりの時までこれらの言葉を秘し,この書を封印しておくように。多くの者が行き巡り,真の知識が満ちあふれる」とダニエル書に預言されています。(ダニエル12:4新世界訳)その聖句は、口語訳では、「ダニエルよ。あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」となっています。(ダニエル12:4口語訳)
その聖句は、GOD'S WORDR Translation では、”Daniel, keep these words secret, and seal the book until the end times. Many will travel everywhere, and knowledge will grow." と訳されています。(ダニエル12:4)ですから、終わりの時には、聖書の言葉が秘密のものとして保たれることは徐々に終り、人々が聖書の聖句の中をあちこち調べて、知識が増すことが予告されていました。
終わりの時には聖書に関する知識が増えて理解できるようになることが預言されていた
過去の僕たちは大変な苦労をして聖書を記述しました。エレミヤなど巻物に自分に与えられた預言を書き記しましたが、一冊目の預言の巻物をユダの王に焼かれてしまいました。それで、エレミヤは王に殺されないようにしながらも、二巻目の巻物を書き記しました。(エレミヤ36:23,26)
エレミヤが命を脅かさせながらも聖書を書き記したのは現代のわたしたちが聖書から益を得るためでしょう
エホバ神はそのように神の僕たちの命を危険にさらすことさえして、神の言葉が完成するようににされました。エホバ神はご自分の僕たちに無駄な努力をさせないでしょう。ですから、神はわたしたちが書き記された聖書から益を得られないことは、望んでおられないはずです。
分厚い聖書を努力をして書き記させたのは、神に信仰を抱く人々が聖書の知識を得て聖書を理解し聖書から益を得るためです。また、私たちに救いを得させるためです。
(2)聖書を理解しようとするために払う努力は報いられる
確かに、聖書は大変難しい本ですから、最初からすべてを理解できる人はひとりもいません。しかし、エホバ神は、わたしたちが聖書を理解することを望んでおられ、そのために努力を払うように勧められています。
箴言の中には、わたしたちが聖書を探求する努力を払うならば、神の知識を見出すと保証しています。
箴言には、「理解を求めて呼ばわり,識別力を求めて声を上げるなら,銀を求めるようにそれを求めつづけ,隠された宝を求めるようにそれを尋ね求めつづけるなら,そのとき,あなたはエホバへの恐れを理解し,まさに神についての知識をも見いだすことであろう。」という言葉があります。(箴言2:3-5)
箴言の同じ部分は新共同訳では、「分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら銀を求めるようにそれを尋ね宝物を求めるようにそれを捜すなら あなたは主を畏れることを悟り神を知ることに到達するであろう。」と訳されています。(箴言2:3-5新共同訳)
銀の鉱山で銀を探すように聖書を探求する努力を払うならば聖書の知識と理解に到達するという報いがあるはず
ですから、銀や宝を 求めるように神の言葉を理解しようと努力を払う時に、「神を知ることに到達する」ことが約束されています。
ですから、ここで言いたいことは、わたしが聖書を全部わかっているということではありません。しかしながら、エホバ神はご自分の聖書を把握理解されており、聖書をご自分の僕たちが理解することを望んでおられるということです。
ですから、聖書はわたしたちが努力を払うならば、理解することが可能な本であるはずだということです。聖書が存在する目的は、神の僕が理解して益を得ることです。(ミカ2:7新共同訳)それで、聖書はいつまでも理解されない本ではなく、この「終わりの時」にわたしたちが聖書を研究する努力を払うならば、その努力は報われ、益を得られるはずであるということです。
聖書はわたしたち人間が理解でき益が得られる本
ですから、私たちは、自分たちが救いを得られるために必要十分な程度までには、聖書を理解できるでしょう。
(3)聖書を理解するのに助けになる伝統的に蓄積された参照聖句とパソコンの検索機能
信仰の人々は、昔から伝統的に参照聖句を蓄積してきました。わたしたちは、それらの参照聖句を読んでみることにより、ある聖句を理解する助けが得られます。さらに、今日では、パソコンで聖書の検索機能があります。その検索機能を使えば、聖書のある語、あるいはフレーズと同じような言い回しを聖書の他の書に見つけることができます。
蓄積された参照聖句は聖書研究の助けになる
最近の技術の発達によって聖書の語句を検索したりさまざまな聖書翻訳を参照したりできる
わたしたちは、そうした参照聖句の蓄積を利用したり、現代科学の恩恵であるパソコンの検索機能を十分活用することによって、聖書の明快な理解をかなり得られるはずです。エホバ神は、わたしたちが明快な理解を得て、終わりの時の苦難の時に、信仰の人々が神からの十分な導きを得させることを意図されているからです。(コリント一10:11回復訳)
(4)聖書を理解できない部分があっても神への信仰を失わず理解する努力を払い続けましょう
聖書は、ただおひとりの神の霊感を受けているので、聖書全体の情報が重要です。しかし、聖書は互いに矛盾していると考えられる記述があります。
聖書は互いに記述が矛盾していると見えたり、不整合があると考えられる場合があります。しかし、エホバ神はご自分が記述させて聖書に含まれるようにされた情報をご存知のはずです。
聖書の中には、理解するのが難しい部分があり、ある人々はそれにつまずいて、聖書を理解する努力をやめてしまいます。しかしながら、神は不誠実な人々、クリスチャンを迫害する人々から聖書の正確で十分な理解を差し控えるようにもされていると思います。
イエスはご自分の弟子たちには、神の言葉を理解することが許されていますが、一部の人々にとっては聖書を読んでも無駄になる場合があると言われました。(マタイ13:10-15)
あきらめないで、引き続き理解しようとする努力を払えば、聖書は少しずつ理解することができていくでしょう。矛盾点と考えられることも納得がいく説明が与えられるでしょう。神はご自分が聖書に書き記させたことをご存じなので、その理解を与えてくださるでしょう。
それで、聖書の背後に、人間と万物の創造者である神が存在されるという信仰を保ち、聖書を理解する努力を続けていきましょう。
また、聖句を解釈する際に、自分の経験や事態の進展を参考にするということが必ずしも間違っていないという場合も確かにあります。しかし、そのような解釈は、間違う可能性も秘めています。この点は、また、次の記事で考慮したいと思います。
これからも、聖書の各書を引用して、エホバ神の目的とご意志について理解する努力を払いたいと思います。そのようにして、聖書の正確な知識を得る事はエホバ神のご意志にかなっています。そうすれば、私たちは聖書を少しずつ理解することができ、その理解は、今の苦難の時代にわたしたちを災難から守り、わたしたちの永遠の救いにつながることになるでしょう。
聖書の神に対する信仰を保って聖書を研究し続けましょう