一時期、小学校の運動会で みんなで手を繋いでゴールテープを切る…そんなバカな!というようなことも本当に起きましたね。
競争がいけないのなら現社会 成り立たない。
私が子どもたちに良くいうのは…「機会としての平等」と「結果としての平等」
機会としての平等は、例えば誰でも東大を受験出来るようにすること。
高校を卒業していなくても高等学校卒業程度認定試験(旧大学入学資格検定)に合格すれば 受験することは出来る。
大検。
関ジャニの横山くんと大倉くんが番組企画で挑戦していましたね。普段は見ない番組でしたが あの回は大変興味深く見ました。横山くん、33ですよ!凄い集中力ですよね。私、大卒ですが、今、あの問題解く自信、全くありません。
結果としての平等は希望すれば全員が東大で学べるようにすること。
この例えならば、結果としての平等が無茶な話だと思えるでしょう?
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私は私大でしたが、東大で教えていた加藤周一さんのコマがあり履修していました。
当時、私大は90分授業、東大は120分授業でした。今はどうなんでしょう?
教授陣も後ろで一緒に講義聞いていました。90分過ぎても全然終わる気配がない…集中力が途切れて、ただでさえ難しい話が耳に入ってこなくなります。
フランス語で考えた方が論理的思考に適していると話し、多ヶ国語を操る方で、ポンポン、何語か分からないものが話の途中に出てきます。
ああ、東大生はこの授業についていけるんだなぁ~とレベルの差を認識しました。
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ただ、物によっては結果としての平等が必要なこともある。
例えば、選挙。
投票権だけを与えられて平等と言われても、実際には投票に行けない人がいる。過疎地で投票所が遠く、自家用車がないと行きたくても行けない…そんな報道を見ました。それは違うなぁ~と思いました。投票権があるというだけでなく、結果として投票に行こうと思う人がきちんと投票出来るように対策をしなければ平等とは言えないような気がしました。
ま、実際は難しい。格差の遺伝 なんて言われますよね。
東大生の親の年収は1000万円超とか…そんな統計が本当にあるのかは疑問ですが、子どもの教育にどれだけお金と時間をかけたかで結果が変ってくることは十分推測出来る話です。いくらかけてもダメなものはダメだろうけれど、伸びる子は伸びる!
教えられないと分からないことって たくさんありますよね。
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私が小学生の時、同じクラスに葉っぱのスジだけのきれいな栞を持っている子がいました。自分でいろんな葉っぱを手で薄く剥ごうとしましたが上手く出来ませんでした。
「葉脈標本」っていうんですよ。理科の実験みたいなもので作れます。使用するのは水酸化ナトリウムという薬品。強い薬で取り扱い注意ですが薬局で大人なら買えます。手作り石鹸の原料にもなっています。
ネットもない時代でしたしね~。随分経ってから知りました。子どもが小学生の時に一緒に作りましたよ。30年前に欲しかったもの。子どもは全然喜びませんでしたけれどね(笑)。
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恵まれているということは気づきにくい。他者との比較の中でしか分からないこともある。
今、(13日夜)うちの娘、少クラの収録に行っています。月曜に学校6時間目まで出てから渋谷のNHKホールに行けるんですよ。帰りは繁華街、物騒ですからね。主人が会社帰りに拾いに行く予定です。
分かっていないでしょうね~。
彼女の目下の悩みは大学受験でも恋愛でもなくGWのコンサートのグッズを前日に並ぶか当日早朝に並ぶか…ということですから。
この平和な日常がいつまでも続くように…毎朝、仏壇の水を替え、線香を立て、ご先祖様に祈っています。
「普通の一日でありますように。」 って。