朝、起きて
きょうは金曜日だと思っていたら
オットー氏が
『きょうは木曜日だね』と
コーヒーを飲みながら言ったから
やや、いちにち得した!
と、うれしくなった。
なあんだ、まだ、木曜日?
それならば、きょうはいちにち
シラガさんのオハナシの続きを
書けるって、もんだ。
時間、じかん。
たいせつで、
でも、贅沢に
襞をおおきく寄せるように
使ってしまう、もの。
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このごろ、ふと
こころに、留まる聖句
イエスが、トマスに言った
わたしを見たから
信じたのか。
見ないのに信じる人は
幸いである。
ヨハネ 20章29節 新共同訳
見たから
信じたのか、という
問いが
胸に、響く。
見るから
信じるのか
では、ない
すでに、
《信じている》
ひと への問いだから
鋭く、深い。
ひとつの、なにかを
信じる、というのは
過去の一点において
見た、からなのか
それとも、いま、この一瞬も
尚、見続けているか、
で、
違いが出てくる、と、思う。
人生は、選択の連続だから
一度、choiceし
それを、信じる、と
それが、LIFEに
深く入り込んでくる。
だからこそ
常に
いま、見ているのか
いま、信じるのか
を、自身に問う
誠実さを、いつも
身の内に持っていたい、と
この聖句に触れると、感じる。
それから
見ないのに
信じるひと
というのは
choiceするとき
取引をしないひと、
のこと、だと
いまは、感じる。
これをしたら
かならず、楽になる
これをしているから
かならず、良くなる
これを選択したら
ひとより、秀でる、潤う
というような、ものが
信じる
という、行為のハジマリに
すこしく多めにあると
それは
《信じられない》と
裏と表の関係となって
大変な怒りを呼んだり
《信じる》が
硬い石のような
ひとを撲てば
傷つけるようなものに、
あなたはなぜ、信じないのか?
信じないあなたの罪に気づきなさい!
なってしまう
ような、気がするから。
信じるは、委ねる 、と感じる。
見なくても
信じるひと
は、
例えば、神さまを信じたら
神が、ジブンに何をしてくださるか
を、見張ったり、証を探したり
待ったりしないような気がするの。
わたしも、また
そう、ありたい。
その、まなざしで、
文字を、つむぎたい。
委ねて、
赦していただきながら
中に入って
泳ぐように
耕すように
愚かに。
わたし、クリスチャンではなく
ただの、気ままな聖書読み、デス。
うがった読み方だったらゴメンナサイ。
ひらくたび、聖書は、読むわたしを
叱り、また、笑ってくださるような気がします。
昨日、ようやく
映画実写版銀魂を観に行った。
わたしは、
銀魂の世界の、芯に
わたしが聖書を読んで
感じるものを、感じる。
漫画だし、
下ネタや
悪ふざけと
カテゴライズされるものが
ばんばん、あるから
なにをおっしゃってる?
と、眉をひそめる方も
いると思うけれど
生きている
そのまんまを
肯いている、
おおきななにかが
あそこにはあって
いつも、笑いながら
救われる。
イエスさまは
銀さん、みたいだったんじゃないかしら
なんて、オタク的
願望(妄想)が生まれる。
世界は
どう在っても良い
おまえらが
笑ってんなら。
きょうも、
いちにちが始まる。
チクタク、チクタク
時間が、わたしの中を
お散歩する。
さあて、ジブンの森へ
行ってきます。
FMリンスで、また!
空想家sio