雨音にきづいて
と、考えたり。
遅く起きた朝は
まだ、ベッドのなかで
はんぶん、眠りたい
朝から、ひとり
ユーミンの【12月の雨】を
うたえば
まだ、みずみずしく生きられる
と、神さまから
言われているよう。
きのう、
いろいろな用事を終えた後
すこしだけ、ヒトリになって
カフェで本を読んだ。
この短編集、この一年
ハルキから遠く離れていて読んでなかった。
こちら、まさにハルキな短編集だが
オトコは年を重ねると
これほどまでにsentimentalに
なっていくのだろうか、と
思ったりした。
まるで、青年と話しているかのようで
ああ、ハルキは何才になっても
ハルキなんだ、と驚きつつ
もはや、ハルキの小説のなかのヒロインに
は到底なれない年齢のオンナになった
わたしは、
ハルキよりも、オトコな気分で読んだ。
ハルキの小説のなかで
オンナはことごとく喪われ
また、性の淵のようなところで
湿った花のごとく、静かに股を開いている。
例外は、まだ少女といえるオンナたち。
ねじまき鳥の手紙を書く少女や
ノルウェイの森の、ミドリ。
わたしはいつもオンナとしては
ハルキ世界では居心地が悪い。
どこにもカテゴリされず
ずっと放っておかれているような
気がする。
しかし、ハルキ世界のオトコは
わたしを癒す。
なんでだろう。
息子みたいな、あるいは
甥みたいな、慕わしさがある。
この短編集には何十年分のハルキが
ぎゅっ、と、詰まっているようだ。
ノルウェイの森の別バージョンみたいな
【イエスタデイ】と【シェエラザード】
【木野】は【ねじまき鳥クロニクル】の新章のよう。
【独立器官】は【回転木馬のデッドヒート】に
収録されていてもおかしくない。
また、長編をひっぱりだして読みたくなった。
ちなみにわたしが一番好きなハルキの短編は
【眠り】で、ある。次に【ファミリーアフェア】
ハルキ世界を人生に必要としないひとは
幸いだ。まっすぐにシアワセになれる。
なぜか、10代のころから
わたしはそう、思っていた。
さて、昨日
わたしの胸をよぎっていったコトバ
が、ある。
それは、不気味 という言の葉。
わたしはもっと
ジブンの不気味さを容認し
オモテに出そう
と、瞬間的に思った。
(ハルキ効果だろーか)
ありのままのジブン とか
本当のジブン とか
ジブンを愛する
とか、言うとき
どこか、
透き通った
清らかさが増した
柔らかで、しなやかな
溌剌とした、ゆたかな魂
を内包した肉体を思うが
それを内外に現した
ジブンになりたいと思うが
それは、なんだか
わたし的には違う、ような気が
ずっと、していたのだ。
辞書で引けば
不気味 とは、気味が悪いさま
であり、
【気味】とは
つまり、
上記に引かれた例文のように
わたしは
すべてに気味が良い
きらびやかな、うつくしい月
では、なく
小説や映画
また、人物においても
すべてに
気味が良いものに惹かれない
と、いうことを感じ。
先日
次女の事故を書いた記事で
わたしは車を運転していた方の
幸福を祈り
それを読んだみなさまが
あなたは優しい
愛に満ちている
など、おっしゃってくださり
とても、恐縮した。
そうなんだろーか
と、狼狽した。
わたしは
愛に満ちている訳でなく
逆に愛が無いのでは
なんて、思った。
怒りが生まれないのは
そういうことではないのか
聖書を読んでも
イエスを裏切ったユダや
イエスを三度知らない と
言ったペドロを
ジブンのように思い
その弱さを愛してきたから
(シンパシーを感じるから)
いつも、正しくない側に
裁かれる側に
立っているのが
わたしだから
ただ、ただ
それだけではないのか
と、考えたり。
今月10日から始める
メイク講座を
ジブン自身でなく
ありのままのジブンとして
【女性装を選んだ50才男子】
として、やろう
と考えるのも、
清らかさ
透き通り
浄化された魂
とは、無縁に思う。
おんなであることを
つまり女性性といわれるものを
喜びをもって受容し、生きていこう
というMessageを
おんなというものに
特化した化粧というものの
講座をやるにあたって
オモテに出さない
いや、それを
前面に出したいと
思わないところは
まさに
わたしの不気味 である。
(わたしはジブンが
おんなだー、と思って生きていない。
おとこだーとも思っていない。
なんか、そのふたつのところには
ジブンはいない、と感じている。
ふうむ、やはり不気味じゃー)
ときどき
わたしは
ROCKなところがあるから
と、ジブンを評するが
それはたぶん
わたし、不気味だから
と同義語であったと思う。
わたしの不気味さは
長らくお母さんであったため
封印されてきたが
(母は正しくなければ
という世界に住んでいたので
隠れキリシタンのように
息をひそめていていた)
これからは、オモテに出そう
と、やはり思う。
(昨日は直感でそう思った)
ありのままのジブンを生きるとは
一点の曇りもなき
気味の良いものになる過程
ではなく
自身の不気味を生きる
ということである
と、わたしは定義した。
なんかそんなことを
思う、朝である。
はちゃめちゃだなー。
空想家sio