今夜は、ひじきの巣ごもりと
ほうれん草のおひたし、
それに、食べたいひとは
ライスカレーを。
電車を降り、
葉桜が騒がしく揺れるなか、
薬局で、目薬を買って帰ってきた。
鞄には、高村光太郎詩集。
時々、読みたくなる。
例えば、【葱】という詩。
立川の友達から届いた葱は
長さ二尺の白根を横へて
ぐっすりアトリエに寝こんでゐる。
なんて、書き出しに痺れる。
好きな詩を拾い読み。
(智恵子抄なぞ、読まぬ)
光太郎は、冬の詩が断然良い。
彼は獣の雄のように強靭なカラダを
持っていたから、冬を真っ向から
受け取めて、たじろがない。
その強さに、憧れながら
sioは彼を畏れる。
彼とは恋愛できない、と思う。
きっと、すべてを差し出しても
足りない、と言われて
とてもとても、疲弊するだろう。
夕食を食べながら、
(つまりは一杯きこしめしながら)
川本三郎著の
【マイバックページ
~ある60年代の物語~】を読む。
2度めだ。
sioは、60年代の学生運動に
そこへ自己懐疑と共になだれこみ、
黙して、就職をし、
今なお、その過去を語らない
あの世代のひとに興味があるのだ。
(おそらくは、わたしたち世代が持つ
やさしさとはちがうやさしさを
持った人々であったのだと思う)
だから、
山岳ベースで起きた
なんともやりきれない
粛清という名の陰惨なリンチも
浅間山荘事件も、その後の余波も
読めるかぎり、読んだ。
憑かれたような時もあった。
この本の冒頭に
漫画家の樹村みのりの
【贈り物】という作品(74年)の
なかの言葉が引用されている。
これをまた、引用する。
それから
わたしたちは
大きくなった
こどもだった
わたしたちは
みな大きく
なった
わたしたちの
うちの一人は
留学のために
羽田をたった
ばかりで
もう一人は
72年の年の2月の
暗い山で
道にまよった
次女のkちゃんが、
ジャニーズの顎の小さな男の子たちを
観ている。
なんと可愛い顔のオトコノコたち!
皆で、踊りながら
フランキー・ヴァリの
【きみの瞳に恋してる】を
甘く、歌っている。
それを聞きながら、
sioは、光太郎の1925年と
川本三郎の1960年代を旅している。
首相官邸にドローンなる
まるで、忍者の掛け声みたいな
機械が落ちていた春に
独り。