『小説論 読まれなくなった小説のために』金井美恵子 | The Little Cub Scouts*

『小説論 読まれなくなった小説のために』金井美恵子


金井

 金井美恵子の文庫新刊。
 80年代の講演に、新たに行った対談を2つ収録したものです。

 10代のころからずーっと読んできた作家で、一時期は(僕ら世代にはこういう人が多いはずですけど)、中上健次と金井美恵子のみが「真顔で読める同時代の国内作家だ」とかなんとか、赤面するようなことを口走ったりもしていたわけですが、『目白雑録』が出たころぐらいかなぁ、ちょっと「もういいかな」みたいな感想を持つようになりました。「金井美恵子は、もういいかな」……ヒドイ言葉だなぁ。

 いや、この人のことは今も好きだし、目白に住んでいたころにスーパーで一度だけ本人を見かけたことがあって、そのときの浮世離れした、なにやら「妖精」じみた印象(「ムーミン」のミーみたい)は、なんかすごく衝撃的だった。その後、講演を聴いたりして、やっぱりすごく魅力的な人だなぁ、「元天才美少女作家」の神秘性は、年を経た今も凄みを増し続けているのだなぁ、なんてバカっぽく感心したりしたわけですけども。

 ただ、金井美恵子自身は今も繊細にして大胆に凶暴なんだけど、「世間」が、パラダイムが変わったって感じがすごくある。
 要するに、もはや彼女の毒舌にキズつく人はいないんじゃないかって気がする。
 そういうプライドとか、恥じらいを持つ人が、もういないんじゃないかっていう気がする。
 なんつーか、金井美恵子が文芸批評の中で「バカ、死ね」と言っている対象こそが、実は「かなりマシな方」で、それはもう絶滅危惧種なんじゃないか? 彼女が「存在しないも同じ」と切り捨てている人種によって、今の文壇は形成されているわけで、だからもう、彼女の言葉は誰にも届かない、みたいな。

 ……っていう「あきらめ」を、彼女自身が20年も前に持っていて、それが講演の基調になっている、ってうのがこの本の印象。
 「どうせわからないでしょうけど、言うのもめんどくさいんですけど……」っていう。なんか、それがちょっと悲しい感じ。「野郎、ピストルで来いっ!」なんて言ってた、あの頃のスリルは、もうこの国にはないね、と。

 どういうわけか、彼女がサッカーの話をするようになってから、「もういいかな」感がアップした、と思う。
彼女が彼女自身に「もういいかな」となりはじめたのかも知れないけど。で、同時に、この本の対談もそうだけど、気持ちの悪い取りまきが増えた。「わかりますよ、金井先生、ええ、僕にはわかりますよ」みたいな。
 僕としては、サッカーなんかじゃなくて、綿谷りさの『夢を与える』をどう読んだのか、聞きたかった、いや、皮肉じゃなくて、本当に。

 僕が昔聞いた講演で、彼女は「今、綿矢りさの話をしてしまうと、自動的に『バカ』になってしまうようなシステムが働いている」みたいなことを言ってたけど、出版界の打算で芥川賞を押しつけられてしまったアイドル女子高生作家が、その数年後に、たぶん手探りで(綿矢りさは、おそらく金井美恵子も、そしてもちろんフローベールも読んではいないだろう。あ、金井は河出書房つながりで編集者にすすめられたかな?)、きわめて愚かな人間しか登場しない、つまり正しくかつ厳しく小説手的な『夢を与える』を書いてしまったことを、30数年前の天才美少女作家はどう思ってるんだろう?
 やっぱり半笑いで「死ね」「存在しないも同じ」なのか? だとしたら、僕的には「金井美恵子はもういいかな」だなぁ。