15、6年前のブログである。

当時まだ16歳、ダンスレッスンから帰る深夜バスの中で、目に入る全てのオフィスワーカー(とみられる方々)を「努力していない存在」として仮想敵に仕立て上げ、断罪していた時期である。

会社に雇われている社会人は一人で生きていく能力がなく、誰かに養ってもらっているから努力が足りない人間だと決めつけていた。ダンスで食っていこうともがいている時期だったのもあるが、小さな頃から「好きなことをやったらいい。でも責任は自分で取れ」と親から教えられて育った自己責任論が、暴論と化している時期だったことが今になって分かる。

 

このブログで私は、アーティストがやっていることを受け入れることができないのであれば、ファンをやめたほうがいいと書いている。というか、ネガティブな感想を抱くことでさえ、ファン失格であるという趣旨で書かれている。

「BUMPだけじゃなく、他のアーティストでも。」と書いてはいるのだが、なぜこういう意見になったのかは、私がBUMP OF CHICKENないし藤原基央を神と崇める思春期を過ごしていたのを無視することはできない。

 

当時のBUMPは、事あるごとに批判されたり揶揄されたりしていた。

そもそも演奏が上手いバンドではなかったのでそれをやんややんや言われたり、シーケンサーなどの電子楽器やストリングスを使うことでさえ「そんなのロックじゃねえ」と言われるような状況だった。

「顔ファン」なんて言葉があり私も使っていたが、楽曲でなくメンバーの外見やキャラクターをアイドルのように好きになることは当時はご法度だったので、少しその気があることを自覚していた私は自分自身のその気持ちを嫌ったこともあった。天体観測前からのリスナーは、天体観測後のリスナーを「売れてから知ったヤツが好きとかいうな」なんて攻撃していることもしょっちゅうだったし、「そういうの関係ねえだろ」という意見で2ちゃんねるが盛り上がっていた。そう、「盛り上がっていた」のである。

今で言えば「炎上」になるのだろうが、あの頃はそれがサブカルであることも理解していたと思う。炎上が日常茶飯事になった今、当時「いうてネット上」だった言い合いが、現実社会の分断につながるわけなのだけれど。

 

だからこそ、2007年の私は「全てを受け入れろ」と言ったわけである。

今だって、まだまだひどいヤフコメや、プラットフォーム自体が分断を煽りに来るTwitterはとても醜い様相を見せるが、当時も最後には罵り合いになるそのやりとりが本当に醜く、そんな醜いやりとりをするぐらいなら聴くのを止めろ、距離を取れ、というのが当時の考えだった。

今考えても、それは決して誤っているとは思わない。

 

しかしながら、「全てを受け入れろ」とは「常に従順であれ」とも取れるわけで、批判するなとも言っているわけである。ついてこれないなら離れろ、というのは自己責任論ともリンクする。

今考えれば非常に一方的なものの見方であり、この世はベースが不公平で、運によって取れる選択肢の数が違うということを全く理解していなかったことを反省するには十分な書きっぷりである。

 

 

さあ、本題に入ろう。

おととい、BUMP OF CHICKENのライブを、かなり久しぶりに見た。

be thereツアー、さいたまスーパーアリーナ2日目、ツアーファイナルだった。

このライブを観て、私は提示された2023年のBUMP OF CHICKENの在り方を、受け入れられなかった。今もまだ受け入れられていないし、今後受け入れられるのかどうかも自信がない。

 

ライブ直後に発表された、オウンドメディアのサブスクリプション≒ファンクラブもなかなかに衝撃的だったが、それよりも、ライブ中の4人の振る舞い方に、ショックを受けてしまった。

彼らは自分たちのキャラクターや4人の物語にコンテンツとしての価値があることを認識し、それを提示する役割を演じているように見えた。アイドル(偶像)として見られることを受容し、その偶像を供給してさえいた。

(念のためにきちんと書いておくが、アイドルに対する蔑視はない。思春期のわたしには少々あったが、今はない。つもりでいる。)

 

BUMP OF CHICKENのライブは、気が狂いそうな日常をどうにか過ごす力を与えてくれる楽曲を全身に浴びた時に今の自分が何を思うかを体感する場であり、それを、偶然にも同じ場所に居合わせたほかのオーディエンスやメンバーと無言のまま共有し、常に孤独感を抱いているはぐれものが束の間の心のつながりを得る場だとわたしは思ってきた。ライブで受け取るコンテンツはあくまでも楽曲であり、それ以外には目もくれずにひたすらストイックに自分と、そして他者と向き合う時間であったのである。

だからこそ山崎貴・A4Aなどの演出が楽曲とオーディエンスの間に入り込んでくることに非常に違和感を感じたりしたものだったのだが、ついにその間にメンバー本人たちのキャラクターや物語が挟まれるようになった。


MCの内容が瞬く間に拡散される今、藤くんの「ありがたいお言葉」は話されないとその方が何かあったのかと思われるであろう。チャマの一件があったが故、ヒロをイジることになっただろうし、ヒデちゃんもステージ上を走るようになったのだろう。4人の仲の良さを強調するようなやりとりも、今の彼らの結束の強さを表しているのだろう。

全てが演出されたものだとは思わない(思いたくない)が、2曲のアンコール後のダブルアンコールが「宇宙飛行士への手紙」であったことも含めて、ある程度の流れが用意されていたと考える方が自然である。もちろん、今までも、あっただろうが、ここまで見え方を意識したものではなかった。


楽曲とMCの比重がこんなにもイーブン(もしかしたらもはやMCの方が重いのかも知れない)であることを、彼らがそのキャラクターや4人の物語さえもコンテンツとして認識して供給している事実は、私には到底受け入れ難いものであった。

 

この受け入れ難さは、昨年の参議院選挙で音楽4団体が特定候補を支持した件に並ぶ。

(なお私は同性婚に賛成するのでその支持候補が自民党の候補であったことも受け入れがたかった理由であることを吐露しておく。でも「あの頃」にSPEEDに向けた憧れの眼差しは今も大切な思い出である。)

あの選挙協力はコロナ禍におけるライブ・エンターテイメント現場補償を求めたロビイングによる代償と言われている。




BUMPのライブが観れるのはその代償を払って得たベネフィットであるという極論を、極論であると自分に言い聞かせるのに必死な状況は今も変わらない。音制連の理事がロングフェロー野村社長であることを考えれば、BUMPのライブとは日本のライブ・エンターテイメントの最前線とも考えてしまう。証拠に、政府のコロナ対策に変化があるたびに、BUMP OF CHICKENはライブの在り方についてステートメントを出してきた。SNSのみならず、チケット保有者にプレイガイドのメルマガを通じても。


その立場で、彼らはライブでの振る舞いや、映像配信や、オウンドメディアの立ち上げなどについて選択を行っていることを考えると、居た堪れない気持ちになる。

これまで、立場を定めないことを一貫してきたバンドだったが、このコロナ禍で、それを定めることを迫られ、そしてそれを引き受けたことは分かっている。


分かっているが、受け入れられない。

それがこんなにも辛いことだとは16歳の私には想像することもできなかった。



もう一つ加えるとすると、楽曲は常に新しい取り組みがなされ、どんどん面白いものになっていっているし、各メンバーの技術も素人が聴いても驚くぐらい磨かれていて、本当にワクワクさせられるライブでもあった。(SEが全曲ラップミュージックだったのには本当に驚いた)

あのライブのハイライトは、宇宙飛行士への手紙の、ヒロのギターソロだった。緊張感があるなかでのあのギターソロは、本当にカッコよかった。


もしかしたら、もう、BUMPのライブには私の居場所はないのかもしれない。私が神と崇めていたその在り方こそ、実は偶像だった可能性を反省しなければならない。だから、少し、離れるべき時期が来たのかもしれない。

そう思うライブだった。

 

いつまで経ってもTシャツを買い足すことができない。

30代になってから購入を検討するTシャツは、そこに何かしらの意志が発生している。

フェアトレードされたオーガニックコットン100%のもの、リサイクル素材、そして、バンド・映画のマーチ…

徒歩2分の場所にユニクロがあった生活の時からは想像できないぐらい、1枚のTシャツを買うのに意志を稼働させている自分がいる。


その中でも、バンド・映画のマーチTシャツはいつまで経っても買えない。

古着になると尚更買えない。


マーチというものはその対象に愛がないと買ってはならない、と自分に言い聞かせている。

どれだけそれが流行っていて、ファッションとして身につけることがクールだったとしても、バンドの音楽に愛があったり、映画に愛があったりしないと着てはならないものだと思っている。

だって、マーチを身につけるということはつまりそのバンドなり映画なりのファンダムの端っこに属するということであり、街中で「それって〇〇のTシャツですよね、お好きなんですか?」なんて話しかけられたときに、ちゃんと「そうなんですこの曲が好きで」とか「このキャラクターが好きで」ってちゃんと返してコミュニケーションが図れないとダメだと思っている。


でも、難しいのはその程度だと思う。

会話を上記のように一往復したらそれでよしとするのか、どんどん深くなるファンダム会話にどこまでもついていけるような知識を必要とするかでは、程度が全く違う。


「べき思考」に囚われがちな私のような人間は後者を意識しがちで、なかなかTシャツに手が出せない。

自分のミーハーさ、知識のなさをひけらかすことは

できまいといつまでも買えない。

逆に、買えたマーチのアーティストや映画のことは知っている自信があるから、話しかけられることがなくとも心の中で古参マウントみたいなものを取ってしまいがちである。



こうして私は近づきたい対象をあえて自分から離すことによってそれを追い続ける自分を美化しようとしてきた。



手に届かないから追い求め続けるその行為自体に恍惚とし、本来求めていた対象はもはやどうでもよくなってしまう。手段が目的化する。

輝いていたのは星ではなく実は四畳半にいる自分の思考だったのかもしれない。


ときどき、Tシャツを先に買って、あとからより対象のことを学んでも良いではないかとも考える。

既に「Tシャツを買った」自分がいるので、その自分に見合うように努力せねばならない。マーチを身につけることが目的なのでなくその対象を愛することが目的なのだとしたら、別にこっちの道筋でも問題ないじゃないか、その方がきっと速いよ、と合理的な自分が語りかけてくる。


さて、速いことが私にとって善いことなのだろうか。

と、いうことはここがホームなのかもしれないなあ


お誕生日前日に気持ちが大きく沈んで、ああこの沈むついでにもっと沈んだろと思い、

観たかったけど映画館でかかっている時期はあまりに個人的にタイムリー過ぎて観れないわと思っていた恋愛映画を観て

意外にも感情移入しなかったなーと思っていたけどエンドロールで急に涙止まらなくなり

あんまり良くないお酒の飲み方をしたあと、夜風当たったら気持ちよさそうだなと思って外に出て

気づいたら翌日の18時、自宅のベッドの上だった


土日に仕事をしないと片付かない状態が続いており、

日曜18時に目が覚めたときには「終わった」と思ったな



十分に大人になってもこんなことをしているので、生きるのが本当に下手なんだなと、前回よりも将来への不安は強くなった


ここ2年何も書いていなかったのは、コロナ禍でもしっかりのんびり生きてこってどこかポジティブに生きれていたからだし

それは今までの経験から、自分の弱点を分かってそれが出ないように仕事してきたからで

やっぱり追い詰められると(いや、自分で追い詰める癖がある)ダメになっちゃうんだよね


仕事は自分の価値が決められる場で、価値があって欲しい、気に入られたい、こんな私でも使えると思われたい、みたいな私の弱点=肯定感を補ってくれる場であるんだけど

が故に認められたい気持ちが先走り過ぎて自分を追い詰める仕事の仕方をしがちです


地方に移住し、正社員として勤務することに再チャレンジしたけれど、やっぱり私にはハードルが高かったなあ


帰るかな…関東…かっこ悪過ぎんな…いつもこんな感じでかっこ悪いな困ったな


自分の葬式でかける曲は何がいいかという話を友達としていて「栄光の架橋」と半ば冗談で答えたのだけど、

マジで自死以外で死んだのであれば葬式でみんな私を褒め称えてほしいと思うのは本心だったりする

葬式あげてくれる人いるかどうかわからんけれども


なんか本当にいい大人なのに自分のことで精一杯で、自分の経験を活かして他の人の役に立ちたい気持ちはあるけどできないし、自分勝手で嫌になっちゃうね本当にね