私はクリスチャンではありませんが、

キリスト教関係で、感化を受けた本がいくつかあります。

三浦綾子の「道ありき」

トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」

高見敏弘「土とともに生きる-アジア学院とわたし」

などです。

 

そのなかで、20代後半の時期に座右の書となったのが

藤木正三牧師による断想集「灰色の断想」と「神の風景」です。

あまり知られていない書で、隠れた名著といえるかもしれません。

本はもう持っていませんが、次のリンクを見つけました。

http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/FujikiShozo.htm

 

例として、3つの断想をコピーします。

 

青  春

 青春とは凝縮した人生なのです。だから、人生のすべてを見てしまったような経験を、若い日に誰しも持つはずなのです。以後の人生はそれに幅と深みを加えてゆくだけのものです。人生の不幸は短命ではありません。それは、以後の人生に幅と深みを期待するような経験を青年期に持たないこと、そして幅と深みを加えるだけの成年期を何かそれ以上の、新しい発見をする時期のように誤った期待をもって生きることです。人生は長命でないとわからないようなところもありますが、長く生きておればわかるというものではありません。

 

世  間

 顧みてくれる人がいないような時にも、見回せば、共にいてくれる人は一人ぐらいは必ずいます。批判する人がいないような時にも、よく見れば、反対している人がかなりいます。それが世間というものです。世間のそういう一面的でない性格のおかげで、私どもは、時に失望しても思いつめないですむのであり、時に傲慢になっても反省へと導かれるのであります。世間は、たしかに雑然かつ茫洋としていますか、それは世間の叡智ともいうべきものであるのです。世間は決して、私どもを追いつめはしません。しかし、甘やかしもしません。

 

わかっています

 どう生きたらよいのかわからないといいます。本当でしょうか。わかっている筈です。それがわからないほどに私たちは鈍感ではありません。わかっているのですが、その通りに生きたくないだけです。思い通りに生きたいので、それを正当化するためにわかっていることを裏切ろうとしているだけです。そして裏切ろうとしても裏切りきれないジレンマを、どう生きたらよいのかわからないというのです。それを口にする時、何かへの裏切りを感じませんか。わからない筈は決してありません。わかっています。必ずわかっているのです。

 

通俗心理学やスピリチュアル系の本には、

ストレスからの自由や幸福を約束する内容が多いです。

それぞれ、それなりの真実はあると思うのですが

良くも悪しくも、読者のニーズにあわせています。

人生の迷いのまっただなかにあった20代後半の当時、

そのような本は、心に訴えるものではありませんでした。

 

藤木牧師の断想集は、その深い内省と、

甘やかさない真実な言葉で、心に染み入ってきました。

 

それから20年以上がたち、

今はそれなりに世間と折り合いをつけて生きていますが

当時は真摯に迷いを生きていたなあ、と思います。

 

実はそれも、過去形ではないのでしょう。

今は今で、別の形の迷いが始まっています。

藤木牧師の言葉にもう一度、立ち返りたいと思う日々です。

 

「灰色の断想」と「神の風景」は

絶版になっているのか、オンラインでも高額になっています。

もっと知られてほしい本です。

若い人と一緒に、読み直してみたいものです。