土曜日の夕方に電話があった。

 

病院から。

 

「お昼をゆっくりですが完食されたあと、

 息苦しいと言われたので呼吸器を付けました」

 

ちびハルとダンナと三人で車を飛ばして 20分の病院へ。

 

見た目は別に苦しそうでも無かったが

さすがに呼吸器があるからしゃべりにくそうな母がいた。

 

看護師さんは笑顔で「目でしゃべってくれるんですよ〜

お母さん、のど痛くない?ね?」と話しかけ

母は笑顔でうなずいていた。

 

でも、ハルだけが病室の外へ呼ばれた。

このとき、くっついてくるちびハルに聞かせたくなくて

ダンナと一緒にご飯を食べに行かせた。

 

水も点滴ももう受け付けない。

お腹にたまった腹水も腹圧が下がって出てこない。

あと数日、持つかどうかです。

 

 

ダンナからメールがあって

 

日曜の夜だから食べたい店が混んでいる。

一時間ほどの待ち時間があるので時間がかかるがいいか。

 

別に待つのは構わない。

病室へ戻り、母の横で座って待つ間に

一方的だが母に話しかける。

ハルが小さい時の話。

 

家から父親が働く事務所の近くまで徒歩10分。

毎週土曜は父を歩いて迎えに行った。

道の途中にはたばこ屋がある交差点。

駄菓子屋も兼ねていたその小さな店には、

当時子どもたちの小遣いでは買えない

ちょっと高価なお菓子もあった

そのひとつが「みずあめ」

割り箸を割らずに、先にみずあめをすくい、

赤や黄色、緑のあまい粉をつけてくれる。

今なら衛生的にも、粉の含む有害物質にも

問題ありありなんだろうが、誰も気にしなかった。

そんな時代。

割り箸を割り、両手に持ってみずあめをこねると

色の粉は混ざって溶け、透明な飴が色に染まる。

それを目の上にかざし、見る風景は

赤や黄色や緑に染まった。

白い横断歩道が赤い線に。

青い空は緑色に。

赤色の車は暗い黒に。

母とふたりで手を繋ぎながら甘い飴を舐めた。

 

当時は家庭に風呂のある家が少なくて

母と一緒に夕食後は銭湯へと通っていた。

ケロリンの黄色いおけを手に、頭と体を洗い

湯船につかれば、隣に近所のおばちゃん

毎日会ってるのに「おおきくなったねえ」と

よく言われたものだ。

風呂から上がってパジャマを着る。

家に帰って寝るだけだから、徒歩数分の風呂屋からは

平気でパジャマで歩けた時代。

番台のおばちゃんに言って、出してもらうのは

ラムネかフルーツ牛乳。ニッキやハッカは苦手だった。

今のラムネと違い、当時は蓋も胴体と一体型。

決して取り出せないラムネ玉は子どもたちの憧れだった。

 

幼稚園が終われば、近所の子どもたちと道ばたで遊ぶ。

運動靴は通園の時だけしか履かせてもらえない高級品。

サンダルや草履で集まって、ご近所協働の小さい洗濯干し場が

ボール遊びの会場だった。

「あいすくりん」の旗を立てた自転車がたまに公園に来ると

ひとすくいでいくら、のシャーベット状のアイスに

子どもたちが10円玉握りしめて群がった。

お豆腐屋さんが通れば解散の時間。

ラッパの音がしたらそれぞれの家に帰った。

 

幼稚園の発表会。

ちょうど水疱瘡がはやった時期と重なった。

まだ、予防接種の種類も少なくて、

一度かかれば二度目は無いはしかや水疱瘡などの病気は

わざわざ移りに行ったモノだ。

ハルは丈夫だったのか、発表会までかかることはなかった。

出し物は合唱と合奏と人形劇とダンス。

人形劇ではナレーターとして舞台に立ち、

覚えたセリフを言う予定が

同じナレーターをするはずの子が数人水疱瘡で脱落。

前々日に担任から台本を渡され、

人の分まで覚えることになった。

本番まで周囲がびくつく中、あがることを知らないハルは

間違えたりしながらも全部セリフを言えた。

保護者席では父母が、前列では担任の先生が

ハルよりも緊張して、終わった途端に腐抜けたのを覚えてる。

 

ちびハルとダンナが食事から帰ってくるまでの2時間半。

しゃべるたびに笑ったりうなずいたりしながら

母とのんびり思い出話をした。

 

しゃべることに疲れ、母が眠そうにしていたので

カバンから入っていた本を出して読んだ。

力が入らないから目で「何読んでる?」と聞いてくる。

北村薫の「空飛ぶ馬」

でかハルがこの間帰ってきたときに

ハルの本棚から適当に選んで持って帰るつもりが

忘れていった本。

ミステリーだけど、ほこほこした気持ちになれる内容だ。

 

ハルと母は喫茶店が好きでよく入った。

ハルはそこで本に夢中になり、母はそんなハルを見ながら

自分も新聞や雑誌を適当にめくりのんびりした。

 

しばらくしてダンナとちびハルが帰ってきて

呼吸も脈拍も血圧も安定してるというので

一旦帰ることにした。

「明日の夕方また来るね」

そう母と約束した。

 

朝5時半くらいに電話が鳴った。

 

呼吸と心音がゆっくりになってきています

できるだけ早く来てください

 

看護師さんの声に、出る用意をしてタクシーを呼んだ。

あと2、3分で病院に到着するというところで

再度の電話。

 

「急がなくて大丈夫です

 先ほど、息を引き取られましたから」

 

相変わらずせっかちな母親は、あとわずかな

娘の到着すら待てないでさっさと先に逝ったらしい。

 

病室に到着すると、まだアラームの鳴る機械も

呼吸器も外れていない母親がぐっすり眠ってた。

10分ほど冷たい手と頬を撫でてると、担当医が来て

呼吸器や装置を外し、死亡確認をする。

 

「6時44分、死亡とさせていただきます」

 

いや、これ生きてるだろ。

だって上にかかってる布団、

なんか上下してる気がするよ?

ほら、今頭が動いたよ?

 

言いたかったけど、やめた。

 

去年の秋のガンの広がりと余命2ヵ月の命の宣告から

一年近く、母は生きた。

前日のお昼ご飯まで誰の手も借りず、

トイレさえ面倒をかけずに元気に死んだ。

 

親父、盆に帰らなかったのかな、とふと思った。

連れに来たのなら仕方ない。

わがままでヒスな母親だけど、

ちゃんとあっちまで連れてってくれ。

 

 

 

・・・・と

 

 

 

これで済んだら綺麗な話だが、

実はこの話にはオチがある。

 

葬儀社に電話して、寝台車と葬儀場の確保をして

場所を葬儀場に移したんだが、

やはり盆に身内を連れて帰るのは、うちだけではなかったらしく

葬儀社の担当が言ったのは

「火葬場が混んでいまして、順番待ちになるんです」

通夜は2日後。葬儀は3日後。

・・・おかーちゃん、色んな意味でクサるなよ滝汗