来てくださってありがとうございます。
おとといから昨日にかけての札幌、びっくりするくらい雪が降りました
根雪になるのはまだまだ先かと思っていましたが、今朝の道路の様子に思わずあたふた
皆さんも足元や車の運転、十分お気をつけください。
11月もあっという間に下旬。
確かに雪が降ってもおかしくない時期になりました。
そんな中、我が家では身内に不幸があり、バタバタとしていました。
約3週間前に倒れた祖父が急逝しました。
祖父は90歳を越える大往生。
そうはいってももっともっと長生きしてほしかったというのが正直な気持ち。
人生80年計画の繰り返しになりますが、自分だけをベースにライフプランを考えてみると、私の人生は自分にとっては理想的で、程よくやりたいことに手を付けて、程よく未練も残り、だからこそこれからの折り返しの期間に何が出来るだろうと意欲がわいたりするのでしょう。
ただ、家族や身の回りの人のことを踏まえると、もう少し早いペースで物事を進めるべきだったのかな、とも感じます。
こんな後悔は今さらどうするわけにもいかないんだけど、せめてあと1年、結婚なり出産なりを早く進めることが出来ていたなら…、と祖父の焼香をしながらぼんやり涙目で考えていました。
私の出来なかったことは、家族、とりわけ妹がいろいろと成し遂げてくれたので、そういう面ではありがたいのだけど、もっと私に出来たこともあったのかなぁ、と。
時を同じくして、私は妊婦真っ最中。
臨月に突入し、正期産の時期を迎えて、来週にはいよいよ予定日。
いつ生まれてもおかしくない状況にドキドキしています。
反面、祖父に赤ちゃんを披露できなかったことが心残りです
ただ、実際のところ、お葬式と出産が重なると家族の負担は計り知れないものになったでしょう。
本人が生前望んでいた ピンピン コロリ 的に旅立ってしまったところを見ると、祖父なりの気遣いだったのかもしれません。
私の子も、早く生まれてはいけない気配を感じて、じーっとその時を待っているのかも(お坊さんのお経やお鈴・木魚の音に反応して一生懸命動いて自己主張はしてましたが…)。
残りわずかな自分時間を、大切に使いたいと思います。
祖父が亡くなった翌日、前々から約束していたこともあり、学生時代の友人のお宅にお邪魔しました。
しぼんでいた気持ちが少し落ち着いて、ちょっと元気になれました。
しばらく会っていなくても、一瞬で昔のように戻れる雰囲気が楽しかったです。
みんなすっかり落ち着いて、学生の頃のあれこれや、妻・母としての日々の出来事を話したり…。
今までは妻トークも母トークもどちらかというと聞き流すこともあったのですが(笑)、ここにきてその内容に交われるのは何となく嬉しい。
友人が、「おじいちゃんから赤ちゃんへ命のバトンなんだよ、きっと」と言ってくれた一言が嬉しくもあり、切なくもあり。
でも、確かにそうだな、と。
そうやって命を繋げることが出来ることのありがたさを感じつつ、我が子への愛情と責任を持って母親デビューをしたいと思います。
今回、祖父の死を通じて、いろいろなことを考えたし、様々な人間模様やその裏側を覗いた気がします。
葬儀ひとつとはいえ、いろいろな段取りが必要だし、こればっかりはやってみないと何とも言えない。
冠婚葬祭のプロフェッショナルでもない限り、そんなに慣れている人や場数を踏んでいる人もいないのではないでしょうか。
ましてや身内のものとなるとなおさら。
早い話、手をかけることも手を抜くことも、いかようにも出来てしまうものなんだな、と。
結婚式はどちらかというと『自分(特に女性)』が主役で、どれだけ時間とお金をかけ、好きな分だけこだわることが出来るものの、結果的に『自分』に対しての自己満足だと思うのです
(もちろん、結婚式は楽しかった。家族も喜んでくれたので自分ばかりの為ではないかもしれないけれど。でも、どちらかというと自己満足の域だと思う)。
お葬式は限られたわずかな時間で、出来る限りの『亡き人』への気持ちの対価を表すものに等しい。
ましてやしきたり・宗教などなど一筋縄ではいかない(でも一番これがめんどくさいし大事だったりする)ものに配慮をしなければならなかったり、その人を取り巻く環境や人々、家族関係が物を言うところも然り。
そういう意味では、喪主を務めた私の父の、祖父への愛情が溢れたお式だったな、と間近で見て感じました。
段取りを進めていく葬儀場の担当者と両親の姿を近くで見つつ、自分がどれだけのことを将来してあげることが出来るのだろうか、ということも考えてみたり。
また、葬儀だけではありません。
遺品の整理や諸手続き、これらにかかる時間と労力の計り知れないことといったら....。
外野はやんやと好きなことを言えるのかもしれないけれど、実際そういったことを次から次へとこなさなければならない立場はこんなにも大変なんだな、と、これまた両親の背中を見てひしひしと感じました。
死によって生活が止まる、というのは、これまで何の気なく起こっていた物事の全てが止まるということで。
そんな現状を周りの人は気にも留めず、事務的に進めているのが世の常であり。
郵便物ひとつ・契約しているライフラインを止めるのにも、都度状況を説明しなければならず、そこにいちいち哀しみに耽る余裕や時間さえなかったのではないでしょうか。
遠距離婚の夫とも、葬儀の一通りを報告し、「冠婚葬祭ほど人となりが顕著に表れるものはないね」と話していたのですが、まさしくその通り。
客観的な物の見方や勉強としての人生経験を身を持ってさせてくれたのかな、おじいちゃん。
祖父が繋いでくれたのは、ひ孫への命のバトンだけではなくて、家族の絆や一体感でもあったのかな、と今回しみじみ思いました。
ちょっぴりしんみり。
おとといから昨日にかけての札幌、びっくりするくらい雪が降りました

根雪になるのはまだまだ先かと思っていましたが、今朝の道路の様子に思わずあたふた

皆さんも足元や車の運転、十分お気をつけください。
11月もあっという間に下旬。
確かに雪が降ってもおかしくない時期になりました。
そんな中、我が家では身内に不幸があり、バタバタとしていました。
約3週間前に倒れた祖父が急逝しました。
祖父は90歳を越える大往生。
そうはいってももっともっと長生きしてほしかったというのが正直な気持ち。
人生80年計画の繰り返しになりますが、自分だけをベースにライフプランを考えてみると、私の人生は自分にとっては理想的で、程よくやりたいことに手を付けて、程よく未練も残り、だからこそこれからの折り返しの期間に何が出来るだろうと意欲がわいたりするのでしょう。
ただ、家族や身の回りの人のことを踏まえると、もう少し早いペースで物事を進めるべきだったのかな、とも感じます。
こんな後悔は今さらどうするわけにもいかないんだけど、せめてあと1年、結婚なり出産なりを早く進めることが出来ていたなら…、と祖父の焼香をしながらぼんやり涙目で考えていました。
私の出来なかったことは、家族、とりわけ妹がいろいろと成し遂げてくれたので、そういう面ではありがたいのだけど、もっと私に出来たこともあったのかなぁ、と。
時を同じくして、私は妊婦真っ最中。
臨月に突入し、正期産の時期を迎えて、来週にはいよいよ予定日。
いつ生まれてもおかしくない状況にドキドキしています。
反面、祖父に赤ちゃんを披露できなかったことが心残りです

ただ、実際のところ、お葬式と出産が重なると家族の負担は計り知れないものになったでしょう。
本人が生前望んでいた ピンピン コロリ 的に旅立ってしまったところを見ると、祖父なりの気遣いだったのかもしれません。
私の子も、早く生まれてはいけない気配を感じて、じーっとその時を待っているのかも(お坊さんのお経やお鈴・木魚の音に反応して一生懸命動いて自己主張はしてましたが…)。
残りわずかな自分時間を、大切に使いたいと思います。
祖父が亡くなった翌日、前々から約束していたこともあり、学生時代の友人のお宅にお邪魔しました。
しぼんでいた気持ちが少し落ち着いて、ちょっと元気になれました。
しばらく会っていなくても、一瞬で昔のように戻れる雰囲気が楽しかったです。
みんなすっかり落ち着いて、学生の頃のあれこれや、妻・母としての日々の出来事を話したり…。
今までは妻トークも母トークもどちらかというと聞き流すこともあったのですが(笑)、ここにきてその内容に交われるのは何となく嬉しい。
友人が、「おじいちゃんから赤ちゃんへ命のバトンなんだよ、きっと」と言ってくれた一言が嬉しくもあり、切なくもあり。
でも、確かにそうだな、と。
そうやって命を繋げることが出来ることのありがたさを感じつつ、我が子への愛情と責任を持って母親デビューをしたいと思います。
今回、祖父の死を通じて、いろいろなことを考えたし、様々な人間模様やその裏側を覗いた気がします。
葬儀ひとつとはいえ、いろいろな段取りが必要だし、こればっかりはやってみないと何とも言えない。
冠婚葬祭のプロフェッショナルでもない限り、そんなに慣れている人や場数を踏んでいる人もいないのではないでしょうか。
ましてや身内のものとなるとなおさら。
早い話、手をかけることも手を抜くことも、いかようにも出来てしまうものなんだな、と。
結婚式はどちらかというと『自分(特に女性)』が主役で、どれだけ時間とお金をかけ、好きな分だけこだわることが出来るものの、結果的に『自分』に対しての自己満足だと思うのです
(もちろん、結婚式は楽しかった。家族も喜んでくれたので自分ばかりの為ではないかもしれないけれど。でも、どちらかというと自己満足の域だと思う)。
お葬式は限られたわずかな時間で、出来る限りの『亡き人』への気持ちの対価を表すものに等しい。
ましてやしきたり・宗教などなど一筋縄ではいかない(でも一番これがめんどくさいし大事だったりする)ものに配慮をしなければならなかったり、その人を取り巻く環境や人々、家族関係が物を言うところも然り。
そういう意味では、喪主を務めた私の父の、祖父への愛情が溢れたお式だったな、と間近で見て感じました。
段取りを進めていく葬儀場の担当者と両親の姿を近くで見つつ、自分がどれだけのことを将来してあげることが出来るのだろうか、ということも考えてみたり。
また、葬儀だけではありません。
遺品の整理や諸手続き、これらにかかる時間と労力の計り知れないことといったら....。
外野はやんやと好きなことを言えるのかもしれないけれど、実際そういったことを次から次へとこなさなければならない立場はこんなにも大変なんだな、と、これまた両親の背中を見てひしひしと感じました。
死によって生活が止まる、というのは、これまで何の気なく起こっていた物事の全てが止まるということで。
そんな現状を周りの人は気にも留めず、事務的に進めているのが世の常であり。
郵便物ひとつ・契約しているライフラインを止めるのにも、都度状況を説明しなければならず、そこにいちいち哀しみに耽る余裕や時間さえなかったのではないでしょうか。
遠距離婚の夫とも、葬儀の一通りを報告し、「冠婚葬祭ほど人となりが顕著に表れるものはないね」と話していたのですが、まさしくその通り。
客観的な物の見方や勉強としての人生経験を身を持ってさせてくれたのかな、おじいちゃん。
祖父が繋いでくれたのは、ひ孫への命のバトンだけではなくて、家族の絆や一体感でもあったのかな、と今回しみじみ思いました。
ちょっぴりしんみり。