愛知県図書館で見つけた「大阪印刷百年史」 (大阪府印刷工業組合、1984 年刊(昭和59年))の中に「明治名所石版画」の発行経緯が推察される箇所がありましたので、報告しておきます。


△石版画 大阪名所 四天王寺西門の景(明治28年刊、版元・古島竹治郎)

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■クロモ石版
石版印刷における色彩印刷は、クロモ石版の登場以前は、もっぱら手描き彩色によっていた。
・明治二十二年三月、森川桑三郎と鈴木蕾斎は、色版の技法を習得するため上京、小西本店で指導を受けた。当時、すでに東京では、砂目石版絵が市中に出回っていたが、大阪ではまだ石版の色ものはみられなかった。
・着色屋は印刷所から回ってきた墨一色刷りの石版画に、毛筆で黄、 赤、青などの彩色を施した。自社で彩色まで行う印刷所も、まれにはあったが、ほとんどの印刷所では着色は専門業者に任せた。クロモ石版が登場してからも、手彩色のほうが簡単と考えて、相変わらず墨一度刷りですまして、あとは着色屋に持ち込む印刷所も少なくなかった。
 
・明治二十年前後から引札が流行し、発行者は色彩を競い合った。引札というのは、いわゆる広告やチラシである。そのため石版印刷物の着色の需要が激増した。明治二十年代は手彩色の全盛時代で、大阪市内には多数の着色専業者が存在した。最大手の大阪着色会社、美術着色会社などは100名以上の彩色工をかかえて繁栄をきわめた。しかし、明治三十年代になってクロモ石版が普及するに及んで、着色会社はすべて姿を消してしまった。
 
・石版印刷のカラー化の入り口で、大阪業界は東京業界に先鞭をつけられた形であったが、クロモ石版時代の到来とともに革新的技術に対する取り組みで、大阪業界は東京業界を追い越し、ついには平版印刷王国を現出させるが、クロモ石版はその端緒になった。
・クロモ石版の流行が定着するのは、明治27~28年の日清戦争のころからで、大阪の石版画工としては、伴定璽爾、前川房之亟、岩本一成、今井治吉らが盛名を馳せていた。それらの石版画工が版下、 製版を行い、印刷は分業にしていた。
 
・大阪と東京とでは、初め印刷の色順序が逆であったが、やがて大阪の色順序が標準となったという経過があった。そしてこのころから、 古島商店(古島竹治郎)、中井商店(中井徳治郎)の引札が爆発的な流行をみせた。両者のしのぎを削る競争は、引札の品質向上と普及に役立ち、明治末期には発行枚数も1000万枚を超えたという。この時期大阪の引札は、全国でも最も活況を呈していたといわれる。

△石版画 大阪名所 梅田停車場の図(明治36年刊、版元・中井徳治郎)
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クロモ石版(クロモリトグラフ)とは、19世紀に発明された多色刷りの石版画(リトグラフ)およびその印刷技術です。色ごとに異なる石版を用意し、何枚も版を重ね合せることで、当時としては非常に美しく鮮やかなカラー印刷を実現しました。
 
以前から私見として述べてきましたが、多くの「明治名所石版画」もこの「古島竹次郎」や「中井徳次郎」の版元が刷っており、「引札」で培ったノウハウを名所絵の印刷にも転用したと考えています。
こうして、「東京名所」「京都名所」「大阪名所」「伊勢名所」などとして、各地の名所旧跡にあるお土産屋さんと共同で企画した明治名所石版画が印刷され、お土産屋さんへ卸され、遊覧客相手に売られていたと想像しています。
 
 
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