もう2021年も終わるわ。。。

なんかこの間2021年の年明けだと思ったのに?

 

早かったけど、長かった。

何もなかったようで、いろんなことがあった。

 

一番大きなことは、自分の中で起きた変化だと思う。

 

少しずつなんだけど、すごく本質的な変化が起きていて、

気がついたら、私は自分に優しく寄り添える自分になっていた。

 

他の人にムカっ腹を立てた時でも、一方的に自分を責めなくなった。

たとえそれが患者さん相手でも。

 

ほんの1年前の私は、患者さん相手に心の中でムカつく自分を責めて、

何日もモヤモヤした気分から立ち直れなくなったりしたものだった。

 

今は、私のポリシーに反することを言ってくる患者さんに対して、

面と向かって自分はそうは思わないと言えるし、

ちょっと口調がきつくなっちゃったかなあとかって後悔することがあっても、

そんな自分をダメな人間だと責めなくなった。

 

どうしてそこに腹が立ったんだろう?

本当は、なんて言いたかったんだろう?

なんて言って欲しかったんだろう?

 

自分を責めないから、そんな風に、自分観察ができるようになって、

自分のことがもっとよくわかるようになった。

 

そして、面白いことに、自分を責めないでいると、

何かにカチンときても、すぐに腹が立つことがなくなった。

カチンときた瞬間に、ああそうか〜私はこう言うことされると、嫌なんだな、悲しいんだな、ってブレークダウンして自分の感情がわかるようになって、怒ってコントロールがきかない状態ではなく、極めて冷静に、対応できるようになる。

言い返す、やめてほしいと頼む、あるいは、その場から立ち去る、など。

 

外から見てわかるような変化ではないけれど、

私の人生を、本当の意味で豊かにし、穏やかにし、しみじみと味わうことができるようになった、

自分にとっては今までの人生で何よりも実りのある変化だった。

 

私は、本当の意味で「今、ここ」にいることができるようになったと感じる。

もっと楽しいこと、もっと意味のあること、もっとすごいこと、

そう言うことがあるんじゃないかとそわそわすることがなくなった。

全てのことに意味があって起きている、と言うその言葉を、心から噛みしめることができるようになった。

 

究極のところ、それが自分を愛すると言うことなのかもなと思う。

自分を愛するってことにはいろんな側面があると思うのだけど、確実に、その中の一つだろう。

私は、今まで、こんな気持ちで自分を見つめて自分を取り扱ってきたことはなかったなあとしみじみする。

 

自分だけが常に悪いと信じてきたこと。

それには、いろんな要素があったのだけど、親との関係は本当に切っても切り離せない。

 

一方的に怒りをぶつけられて、それは私が親を怒らせるようなことをしたからだとずっと言われてきた。

要領が良くて決して怒られることのない弟にも、姉ちゃんは本当に親を怒らせるようなことを言うよなあと呆れられてきた。

だからずっと信じてきた。

人を怒らせるのは私のせいだ、と。

 

人に好かれるのも、嫌われるのも、自分の言った一言のせいなのだと信じていた。

なんとか好かれなくてはと言う強迫観念もあったから、常に、人を怒らせないようにとびくびくしていたし、自分の言葉が間違って解釈されたりすると本当に腹が立った。

 

今になってよくわかる。

怒るのは、怒る側の責任なのだ。

どんなことを言われても、怒る側がどう解釈するか、どう行動するか、それは完全に怒る側がコントロールできることなのだ。

子どもに対して手が付けられないほど怒って、それを子どものせいにしてきたうちの両親。

彼らは、今の私に比べると、はるかに精神年齢が低かったのだろうから、仕方のないことかもしれないけれど、幼い私がいた状況は、私が信じ込まされていたよりも、ずっとずっと私にとって過酷だったのだ。

 

先日、とあるヒーリングを受けた時に、私よりもはるかに若いヒーラーさんが言ってくれた。

あなたがいた状況は精神的虐待でしたね、と。

それを聞いて、信じられないほどに肩の荷が降りた。

私はずっと、親への怒りを昇華できない自分を責めていたし、ヒーリングやカウンセリングを受けては、親に感謝できない、親と和解できない自分が問題なのですよと指摘され続けてきた。

でも、違った。

私じゃなかったのだ。

 

私は本当は、一番傷ついていて、一番癒されるべき人だったのに、それすらも自分に許さないくらい、がっちりと「お前が悪い」という親の洗脳にはまっていた。

でもそれこそが、虐待とかトラウマとか言うものにはまってしまった人が、陥る状況なんだと思う。

 

ガボール・マテは言っていた。

トラウマとは、外的状況によって起こるものではない。

何かをされたから、起きたから、トラウマになると定義できるものではない。

トラウマは、子どもの心の中で起こるものなのだと。

なんらかの原因で、子どもが、本来の自分を出したら愛されないと感じてしまうこと、それこそがトラウマであって、その意味でトラウマはどんな人にも起こりうるものなのだ、と。

 

この言葉にとめどなく涙が流れた。

今まで私は、「本当の自分」をどれだけ探してきたことか。

私は本当の自分というもの、自分の感情、とっさの反応、本音、そう言ったものを出したら怒られ、嫌われるものだと固く信じてきたから、本当の感情が出そうになるたびに、それを秒速で抑圧してきた。

抑圧した状態で、自分の本音がわからないと顕在意識では言い続けてきた。

そりゃそうだ。

それだけ抑圧していれば、その本音が意識に上るはずはない。

 

それでいて、自分の本音で欲しいものは何だろう?と探し続けてきたのだ。

長い長い、回り道だった。笑

メーテルリンクの「青い鳥」みたいな結末だった。

全ては、自分の中にあったのだ。深く深く抑圧され、隠されて。

 

両親に愛され、認められ、受け入れられて自由に生きてきた人には、絶対にわからないだろう。

私の今まで生きてきた世界がどれだけ狭く、苦しく、過酷だったか。

一見、何不自由なく育ててもらったように見えるから、余計にわかりにくいだろう。

 

両親を恨んでいるわけではないけれど、今、やっと自分がスタートラインに立てただけなんだなあと思うと、やっぱり、両親に愛されて、普通に愛を育んできた人たちを、とても羨ましく感じるのを止めるのはなかなか難しい。

 

それでも。

私は今、過去の全ての自分に対してお礼を言いたい。

あれだけ怒られ、けなされ、否定されながらも、自分を諦めなかった自分に。

本当に自分が幸せを感じる人生を、諦めなかった自分に。

 

そして、今までたくさんの葛藤を経てたどり着いたこの境地だからこそ。

私が自分に、人に、そしてこの世界に対して注げる愛を、とても尊いと感じる。

大したことはできない私だけれども、私が人を愛する力を失わなかった、その事実こそが、本当に尊い。

人間というものは、尊くそして強い。そう感じる。

 

2021年もあと2週間余りで終わるけれども、少なくとも、私にとってはたくさんの収穫のある年だった。

そう思って年の瀬を迎えられることの喜び。

 

なんだかすでに今年も終わりモードに突入しつつあるけれども笑

来年やってくる世界がどんな世界なのか。

本当に楽しみで、本当に人生って面白い。

そんな風に思う。