フェデリコ・テシオがNearcoを種牡馬として使ったことはない、という話は人口に膾炙されています。しかし、伝記作家フランコ・ヴァローラは著書で「ドルメロ牧場がNearcoを種牡馬として使ったのは、1939年とテシオの死後1957年の2回だと信じられている」と記しています。

 

Nearcoは1938年、パリ大賞を勝利した直後、英国のマーティン・ベンソンに60,000ポンドで売却され、ビーチハウススタッドで種牡馬生活に入りました。そして1939年、種牡馬Nearcoとしての最初の年、テシオはFoliationという牝馬を英国に送りNearcoを種付けしました。

 

 

Foliationは英国産、James Edward Pattの生産馬で、牝馬ながらSt.Leger3着の実績などがある馬です。おそらくMannameadの子を受胎した状態で(産まれたのはFiorenza。後にFiorilloの母となる)、1936年ドルメロ牧場にやってきました。テシオは名繁殖牝馬Nera di Bicciの父でもある種牡馬Traceryを気に入っており、再びその血を入手したいと考えていました。そんな時、Tracery産駒の牝馬Foliationを入手できたのです。

 

ところがFoliationは受胎率が悪く、テシオがFoliationから産駒を得たのは1937年のFiorenzaと1939年のFortuny(Premio Principe Emanuele Filiberto、ミラノ大賞3着など)の2頭しか得ることができませんでした。そんな受胎率の悪いFoliationを1939年、Fortunyを産んだ後に英国に送ってNearcoを種付けしたというのです。

 

この頃、テシオはPhalaris系にはあまり興味を示していませんでした。もちろんCameronian、Fairway、Pharos、Mannaなどは良く使っています。しかし、それよりもCaptain Cuttle、CoronachなどのHurry On系種牡馬に最大の魅力を感じていました。ですから、Nearcoがイタリア最強馬、テシオの最高傑作と世間に謳われていても、この頃、牧場で重要だったDelleanaやDossa DossiなどのD系統、Try Try Again、TofanellaといったT系統の繁殖牝馬ではなく、まだ実績のないFoliationを選んだのかもしれません。

 

しかしながら。おそらくは母馬Foliationの頭文字Fを付けた産駒は生まれませんでした。そのことをテシオは残念がったのでしょうか。それとも特に気にも留めなかったのでしょうか。そして二度と再びNearcoを種牡馬に選ぶことはなく、テシオのNearco産駒は幻と消えました。

 

Nearco×Foliation こんな感じです。

 

 

1957年。フェデリコ・テシオが亡くなって3年後、リディア・テシオとマリオ・インチーサ侯爵は、名繁殖牝馬TokamuraにNearcoを種付けするべく英国に送りました。もしかしたら英国より、Nearcoの体調が悪いと聞いていたのかもしれません。「これが最後のシーズンになるかもしれない」と。そして6月、Nearcoは22年の生涯を閉じました。しかし、このラストクロップになる“T”の名をもつ子も産まれることはありませんでした。

 

Tokamura

 

Nearco×Tokamura  こんな感じ。

 

 

こうしてNearcoは生まれ故郷のドルメロ・オルジアータに直系の子を一頭も残すことなく、その生涯を閉じたのです。

 

しかし、そのことはテシオにとってもNearcoにとってもさほど悲しいことではなかったのかもしれません。何故なら、Nearcoが亡くなった時、すでに多くの息子や孫世代が種牡馬になっており、その血脈は欧州だけではなくアメリカ、そして日本にも広まりつつありました。そして現在。Nearcoの血が入っていないサラブレッドはおそらくはこの世には存在しないでしょう。

 

Nasrullah 1940年

 Grey Sovereign 1948年

 Never Say Die 1951年

 Red God 1954年

 Bold Ruler 1954年

 Never Bend 1960年

Royal Charger 1942年

 Turn-to 1951年

Dante 1942年

Nearctic 1954年

 Northern Dancer 1961年

 

Toulouse Lautrecは、テシオがNearco直系の種牡馬Danteを使った例外と言われることは多いですが、実は他にも例外がいます。Nimbusから生まれたWatteauという牡馬です。

 

 

 

Watteau 1954年 牡馬 フランス産 鹿毛

父Nimbus 母Windsor Park 母父Windsor Lad

主な勝鞍 ?戦9勝?

Premio Eupili、Premio Ambrosiano、Premio del Sempione(出走記録)

 

父Nimbusは英国産。主な勝鞍に英2000ギニー、英ダービー。Nimbusの半弟にGrey Sovereignがいる。晩年は日本に輸入され、グリーングラスの母ダーリングヒメなどを残した。母Windsor Parkも英国産。1946年にテシオがイタリアに輸入。

Watteauはテシオが亡くなった1954年に産まれ、BraqueやAngela Rucellaiたちとともにリディア・テシオとマリオ・インチーサ、ウーゴペンゴ調教師のもとで鍛えられました。テシオがどうしてNimbusに興味を示したのかは不明です。晩年、老境といえど、また新しいサラブレッドを模索していたのかもしれません。

 

しかしBraqueと同じく、テシオがその走る姿を見ることは叶いませんでした。Watteauは1歳下のTiepoloやMalhoaの調教パートナーを務めながら、自身はPremio Ambrosianoに勝ちましたから、一流のサラブレッドだったと思います。

 

1961年、ドイツに種牡馬として輸出されました。Watteauの直系は既に途絶えたようですが、母系に残り、1999年のナッソーステークスに勝ったZahrat Dubaiなどの母系にその名を見ることができます。

 

 

参考文献

La Stampa

Galopp Sieger

Jbisサーチ

il mito Tesio