Nakamuro

1940年 イタリア産 父Cameronian 母Nogara  母の父Havresac II

主な戦績

Premio Principe di Napoli1着、Premio Gian Giacomo Trivulzio1着、 Derby Italiano 2着,Gran Premio d’Italia 4着

 

父Cameronianは、スコッチウィスキーの銘酒Dewarsの創始者一族John Arthur Dewarの持ち馬。1931年の英2000ギニー、英ダービーの二冠に勝利。三冠をかけたSt.LegerではSandwichに敗れた。種牡馬としてScotish Union(英St.Leger)、Finis(Ascot Gold Cup)など。母Nogaraはテシオ屈指の名牝。産駒にはNearco、Niccolo dell’Arcaなど多数。

 

Nakamuroの名は日本の洋画家中村不折よりと言われる。(Nakamuraのままだとイタリアでは女性名詞のため、牡馬の名前の為Nakamuroと男性名詞へ語尾を変化させたのかな)

 

 

NakamuroはNearcoの半弟で、父CameronianがPharos産駒の為似たような血統構成です。同期には、De Nittis(Premio Ambrosiano)、Simone da Bologna(Premio Parioli)、Tokamura(Premio Regina Elena、St.Leger Italiano)らがいますが、テシオはNearcoの半弟であるNakamuroに一番の期待を寄せていました。

 

しかしNakamuroは2歳から異才を放っていたわけでもなく、クラシック初戦のPremio Parioliにも出走せず3戦3勝とはいえ強敵を避けた無敗でDerby Italiano(当時はGran Premio del Re Imperatole)に出走しました。そこには世代最強馬でテシオのライバル、ジュゼッペ・デ・モンテル最後の傑作となるOrsenigoが待ち構えていました。

 

Orsenigo 牡馬 1940年生まれ イタリア産

父Oleander 母Ostana 母の父Havresac II

主な戦績 Premio Emanuele Filiberto 1着、Derby Italiano 1着、Gran Premio d’Italia 1着、Gran Premio di Milano 1着

主な産駒 Tommaso Guidi(St.Leger Italiano他)

 

かつてOrtelloがその世代を席捲したように、この年もOrsenigoが2歳から頭角を現していました。奇しくも、Orsenigoの母系はOrtelloと同じHollebeckに遡ることができて、テシオは再びこの血統と相対することになりました。

 

Ortelloの時、テシオにはCavaliere d’Arpinoという未完成の最強馬がいました。終ぞ対戦することはありませんでしたが、テシオも競馬ファンも、テシオがデ・モンテルに敗北したという印象はあまりありませんでした。(むしろデ・モンテルがCavaliere d’Arpinoとの対戦を避けていたようにも見えた)

 

1943年、テシオはこのOrsenigoをこの世代のライバルと認め、Nakamuroには兄馬Nearcoと同様過酷な調教を与えられました。Nearcoは2歳になる前から古馬と変わらぬ調教を課せられ、それを軽々とクリアしました。しかしそれはNearcoという世紀の名馬であったからです。同じ調教を兄弟馬とはいえ同じ結果がでるとは思えません。しかしテシオはNakamuroの資質を信じ、必ずクリアしてOrsenigoに勝てると考えたのです。伝記作家フランコ・ヴァローラは、Nakamuroはテシオの無理な調教の犠牲になった馬の一頭であると記しました。

 

そして1943年5月17日。Derby Italianoを迎えました。

 

La Stampa 1943年5月18日号より

OsenigoがレコードタイムでGran Premio del Re Imperatoreに優勝。

5月17日、ローマにてOrsenigoはレコードタイム2:27:1/5で勝利しました。

3戦3勝の無敗のNakamuroが本命でしたが、DerbyではOrsenigoには敵いませんでした。フライングスタートがあった後、フィオールドキデアは先頭に立ち数百メートル進んだところでNakamuroがフィオールドキデアを追い越し、オルセニーゴ、フリニャーノ、シモーネ・ダ・ボローニャが続きました。最終コーナーまではそのままの態勢を維持すると息を切らし疲れ果てたシモーネをNakamuro追い越し、ゴールへと向かいます。しかし、すぐにターフの中央からオルセニーゴが飛び出し、Nakamuroに馬体を併せると簡単に抜き去りそのまま1着でゴールしました。

 

ソシエタ・デッレ・コルセの会長は、空襲の犠牲者のためにこの日に収益全体をピエモンテの女王に譲り渡すことを決定しました。(ダービーの前日1943年5月16日、連合国軍による最初のローマ爆撃が行われた)

 

Gran Premio del Re Imperatore 

1. Orsenigo (58, Camici) del nobile De Montol

2. Nakamuro (58, Gubellini)

3. Frignano (58. Caprioli)

4, Cola d'Amatiice (58, Celli)

5. Simone da Bologna (58, Lamberti)

 

NakamuroとOrsenigoは続くGran Premio d’Italia(当時はGran Premio dell’Imepro)へ出走します。テシオはようやくなのか、NakamuroではOrsenigoには敵わないと悟ったのでしょうか、Tokamura、De Nittisも一緒に出走登録しました。しかしこのレースも「楽勝」と称されるほどの快勝でOrsenigoが勝利しました。

1 Orsenigo

2 Tokamura

3 De Nittis

4 Nakamuro

 

その後、Orsenigoは当然のようにGran Premio di Milanoに出走。テシオはTokamuraを出走させNakamuroは出走させませんでした。結果はOrsenigoが勝利。Tokamuraは2着に終わりました。


この頃、Orsenigoの生産者で馬主であるジュゼッペ・デ・モンテル氏は、ヒトラーの人種隔離政策に従ったムッソリーニにより、ユダヤ人の銀行家ということで迫害を受け、全財産を手放しイタリアから逃れました。当然、Orsenigoを始めとした名馬やサンシーロの厩舎も手放し、OrsenigoらサラブレッドはTicino厩舎が引き継ぎましたが、美しい厩舎は放置されました。(現在も廃墟としてサンシーロ近郊に存在)

 

Nakamuroは7月のPremio Principe di Napoliに勝利。この勝利はNakamuroの実力を発揮した数少ないレースで、兄Nearco級ではないにしても、Nakamuroがテシオの名馬の中でも見劣りするような存在ではなかったことを証明しました。

 

ヴァローラは、NakamuroはOrsenigoに対するテシオのライバル心の犠牲になり、本来であればもっと活躍できたはずだと考えました。確かにその面もあるかもしれません。私はすこしロマンを加えて、テシオは社会情勢を考え、デ・モンテルがイタリア国内で競馬を続けるのが難しいと考えていたのかもしれません。タイムリミットが迫る中、テシオはOrsenigoを何としても倒したかったのではないでしょうか。イタリアの競馬ファンたちに、自分たちの最後の対決を見せたかったのではないでしょうか。それも最高の名馬、最高の舞台で、最高の騎手による最高のレースを行うことが、最高のライバル、デ・モンテルへのはなむけだったのかも、と考えてしまいました。

 

引退したNakamuroは種牡馬としてイタリアやアイルランドで活躍しました。どちらかといえばすぐれた牝馬に恵まれ、イタリアオークスに勝ったSambaやOlaなどを残しました。また、Maggiolinaは後にRibotを交配され凱旋門賞を勝つMolvedoの母となり、Menkaは、ドルメロに由縁のある英ダービー馬Psidiumを交配されMeninaを産みました。Meninaは日本に輸出され、オンリーフォアライフを配して産まれたのが天皇賞春を勝つイチフジイサミでした。


 

参考

il mito di Tesio

La Stampa