Angelica Kauffman

1906 イタリア産 鹿毛 牝馬

父Melanion 母Isoletta 母父Isonomy

主な戦績

Premio Regina Elena1着、Derby Italiano 2着、Premio Parioli 3着、Gran Premio Ambrosiano3着、Premio Principe Amedeo 4着

 

Angelica Kauffmanはテシオ初期の名牝です。まだDerby Italianoを勝つ前のことで、馬産家として少しは名を知られだした頃ですが、まだまだ駆け出しの頃といえます。そんなAngelica Kauffmanは、Premio Regina Elena(桜花賞)を勝ち、Premio Parioli(皐月賞)で3着、Derby Italiano(ダービー)で2着になったことで1909年の3歳牝馬のチャンピオンになりました。スピード豊かだったようで他馬を追い抜く描写が多く書かれています。しかし古馬になってからは牡馬相手に苦戦しました。それでも当時の大レース、Gran Premio Ambrosianoで3着に食い込み、イタリア産馬のレベルも上がってきた、とイタリアの競馬ファンを喜ばせました。

 

父Melanionは1886年英国産。英国で中堅級の活躍をした後、1896年にイタリアへ輸出されたイタリア競馬界草創期の名種牡馬です。母方のHoneysuckleは名種牡馬Newminsterの全妹で、他にStockwell、Galopin、Hermitと当時流行の血をもち、競争成績以上の種牡馬成績を上げたと思います。主な産駒に、May Race(愛オークス)、Tocsin(伊ダービー)、Esquilino(伊ダービー、伊セントレジャー)、Massena(ミラノ大賞)、Guido Reni(伊2000ギニー、伊ダービー)初期のテシオも重用しました。

 

母Isolettaは1891年英国産。鉱山会社を営むAlfred William Cox(1857-1919)の生産馬で、1903年頃テシオがわずか470ギニーで購入できたのは幸運といえます。何故なら、Isolettaが英国に残してきた1898年生まれの牝馬Galicia(父Galopin)は、1906年Bayardo(父Bay Ronald エクリプスステークス、英セントレジャー他。産駒にGay Crusader(英三冠馬)、Gainsborough(英三冠馬)など、歴史的大種牡馬)、1907年Lemberg(父Cyllene 英ダービー他 産駒にEllangowan(英2000ギニー他)など)を産む歴史的な牝馬になったからです。もしAngelica Kauffmanと同い年のBayardoが先に活躍していれば、Isolettaを購入することはできなかったかもしれません。因みにテシオはBayardoもLembergも種牡馬として使用したことがあります。なおIsolettaは、Angelica KauffmanとArnolfo di Cambio(Derby Italiano3着など)の2頭を残して 1908年に亡くなったそうです。

 

Angelica Kauffmanの名前は18世紀スイスの女流画家からで、同期には 出世頭で現ミラノ大賞を勝ったFidia、Ilaria del Carretto、Sassoferrato、Vigee Lebrunらがいます。

 

 

La Stampa 1909年3月22日号より

Premio Regina Elena 1.600m

3歳牝馬のクラシック第一戦エレナ王妃賞は、サーローランドのウアカンバ、アルチナ厩舎のモルゴラ、フェデリコ・テシオのアンジェリカ・カウフマン、バストーギ厩舎のドミティア、イベスネイト厩舎のセスティリアなど11頭が出走します。アンジェリカ・カウフマン、セスティリア、モルゴラが差のない人気を集めています。スタート前ドミティアはいらいらしており、セスティリアは盛んに脚を跳ね上げて落ち着きがありません。二度のフライングがあった後スタートが切られました。11頭はほぼ1列に並びしばらくそのまま流れましたが、落ち着いたウアカンバが先頭に躍り出ました。セクスティリアはウアカンバの後ろにピタリと付けて様子を伺いますが、3番手のドミティアも隙をついてウアカンバに競りかけます。アンジェリカ・カウフマンはじっと4番手を進みましたが、ヤコブ騎手が最終コーナーの手前でレースを動かします。メインスタンド前の直線では先を行くウアカンバは最後まで抵抗しましたが2位を堅持するのがやっとで、アンジェリカ・カウフマンのスピードにはついていけませんでした。

1着アンジェリカ・カウフマン(54㎏、ヤコブ)フェデリコ・テシオ

2着ウアカンバ(54㎏、スペンサー)サーローランド

3着ドミティア(54㎏ エメリー)バストージ

 

次戦は、皐月賞に当たるPremio Parioli(Roma 1,600m)で、Sassoferrato、Uakambaとともに人気を集めましたが、勝ったのはB.L.Guastalla厩舎のFranck(56㎏ Lane)で、2着にSir RholandのDasodi(54kg Varga)、Angelica Kauffman(54kg Jacobs)は3着でした。

 

トリノに戻ったAngelica Kauffmanは、Premio Principe Amedeo(2,200m)にテシオは、FidiaとともにAngelica Kauffmanを出走させます。勝ったのはFidia。Angelica Kauffmanは着外。

 

1910年6月13日 La Stampaより

Gran Premio Ambrosianoは、Sir RholandのDesGoldが勝利。

 

悪天候が続いていたことにより開催が不安視されていたミラノ競馬のハイライトでしたが、当日は穏やかに晴れ渡り、美しい競馬日和となりました。駐車場には馬車や高級な自動車がずらりと並んでいます。貴賓席にはロンバルディアだけでなく、イタリア各地の貴族やジェントリ、富豪たちと女性が集いました。また多くの馬主も集まっています。Federico Tesio、Pasquale Perfetti, Della Gherardesca伯爵, Bastogi伯爵, Bocconi兄弟, Scheibler伯爵, Talon伯爵, Marsaglia,たち。Grand Premio Ambrosianoに出走するのは14頭のサラブレッドたちです。

※Ambrosianoとは、ミラノの大司教聖アンブロジアノを由来とする言葉で、転じてミラノ教区に住む人、つまりミラノっ子という意味だそうです。レース名は後にPremio AmbrosianoとGranがつかなくなるのですが、当時はPremio Ambrosianoと別名のレースがあったようです。Gran Premioで大賞、Premioで賞みたいな感じでしょうか。

 

昨年はフランスから遠征してきた3歳牡馬のMystificateurにあっさりと勝利され、イタリア人たちは激しく落胆しました。しかし今年、Mystificateurは出走しません。

※Mystificateurはおそらくフランスでは中堅級くらいの馬だったようで、そのレベルの馬に敵わないのですから、当時のイタリア競馬のレベルは押して図るべしという具合でしょうか。

1910年Gran Premio Ambrosiano 出走メンバー

Flossilde (45, Garrigou) Dall'Acqua Leonino

Uakamba (55, Vnrga) Sir Rholand

Desgold (50, Blackburn) Sir Rholand(当時最先端の英国種牡馬Desmondの子)

Madhub (47, Williams) Sir Rholand

Dedalo (57, Bartlett) Bocconi (1909年伊ダービー、伊セントレジャー)

Alcesbe (55, Benson) Bocconi 

Doidicete (50, Ryan) Chimelli

Giottina (45, Biasci) Tesio (テシオGラインの祖)

Angelica Kauffman (52, Lane) Tesio

Lady Helen (51, Spencer) Razza Gerbido

Saint-Remi (53, Woodcook) Razza Gerbido ;

Wistaria (51, Woodlaod) Perfetti  (1910年の伊オークス、伊2000ギニー、伊セントレジャー)

West End (45, Child) Bastogi

La Nocle (58, L. Gill) barone di Gourgand

 

 

今年のアンブロジアーノ大賞は混乱模様といえるでしょう。フランスから遠征してきた4歳牝馬ラノクルは3歳シーズンの強さから人気を集めていますが、今年の成績は平凡で不安要素があります。イタリア代表の中ではダイダロスが人気といえますが、アンブロジアーノ大賞の2,100mは長距離を得意とするダイダロスには短いかもしれません。

 

スタートの合図の鐘が鳴らされ、14頭がグランドスタンド前をパレードしてスタートへと向かいます。落ち着きのない馬がいるため、なかなかスタートが切られません。(※当時はゲートがなく、ロープが張られて各馬がそれなりに揃うとロープが上がるスタート方式。なかなか呼吸が合わずやり直しはよくあった模様)

 

二度のやり直しの後、スタートが切られると先ずアンジェリカ・カウフマンが飛び出しました。サーローランドのデスゴールドは少々出遅れましたがすぐに取り戻し、先頭を奪います。そのまま各馬は大きく動くことなく、レースは半分1,000mを越えました。そこでサーローランドのもう一頭ウアカンバがアンジェリカ・カウフマンに迫ります。コーナーで並びかけましたが、アンジェリカ・カウフマンはその差を縮めさせません。しかし、そこへレディヘレンが並びかけたのです。アンジェリカ・カウフマンは抵抗しますが3着を死守するので精一杯でした。勝ったのはサーローランドでデスゴールド、クビ差でレディヘレン、半馬身差でアンジェリカ・カウフマン。さらに半馬身差でウアカンバでした。観衆はサーローランド厩舎の勝利に万来の拍手を送りました。

 

Angelica Kauffmanは1910年で引退、ドルメロ牧場に戻りました。1915年Sun Starを父にArta Grecaという牝馬を得たようですがその後は不明で、ドルメロ牧場にAngelica Lauffmanの血統が残ることはありませんでした。

 

ミラノにも滞在したことのある女流画家Angelica Kauffmanの遺した絵画の中にギリシャ神話を元にした『テセウスとアリアドネ』があります。テセウス(イタリア語読みでテシオ)はアリアドネを娶ると約束しますが、ダイダロスの迷宮でミノタウロスを打ち破った後、約束を反故してアリアドネの元を去ってしまいます。テシオはAngelica Kauffmanを大変気に入っていましたが、引退すると興味を失ってしまいました。それはこれから何度も起こるテシオの生産方針であり、才気あふれる芸術家の性なのかもしれません。

 

Aneglica Kauffmanは1906年生まれですが、意外と出走記録が残っています。

そのうちの1910年5月のトリノ、ミラフィオリ競馬場で開催の記録はGoogleブックスで閲覧できます。

 

1908年 Premio Bimbi 3

              Premio Tevere 1

              Premio Eupili 2

              Premio Pisa 1

1909年 Premio Regina Elena 1

Premio Parioli 3

Derby Italiano 2着

Premio Principe Amedeo 着外

Gran Premio Ambrosiano 5

1910年  Premio Molino Pisano 3

              Premio Apriea 2

              Premio dei Ministero d’Agricoltura 3

              Premio Rivoli 1

              Gran Premio Ambrosiano 3

              Premio Resegone 3

 



参考

il mito di Tesio

 

La Stampa

 

 

La Stampa Sportiva