Nogara 牝馬

1928年~1948年 イタリア産 鹿毛

父Havresac II 母Catnip 母の父Spearmint

主な戦績:18戦14勝

Premio Regina Elena 1着、Premio Parioli 1着、Criterium Nazionale 1着他

 

Nogaraの顔には痘痕のような斑点があり、Spearmint産駒独特のラバのような顔を受け継いだ容姿は、テシオの美的感覚からすれば“醜い馬”でした。しかし、かつてハンガリーの至宝女帝Kincsemを盗んだジプシーの占い師は「この馬は醜いから勇敢だ」と言ったそうですし、馬とロバの交雑種ラバは忍耐強くどんな急坂も登りきると言います。

そんな言い伝え通りだったのでしょうか。醜いNogaraはレースになるとターフを舞うようにエレガントに、誰よりも速く走ったそうです。

 

<血統背景>

Nogaraの父Havresac IIはフランス産。1歳のときジュゼッペ・デ・モンテルに購入されイタリアで走り、Premio Ambrosianoなどに勝利して14勝。種牡馬としてCavaliere D’Arpino(G.P. Milano)、Erba(Oaks Italia)などなど。イタリアで10回も首位種牡馬になりました。母Catnipはテシオが1918年、イギリスのセールにて75ギニーで購入した伝説の安馬。テシオの元で8頭の馬を産み、Nogaraはその7番目の子ですから晩年(18歳)の産駒です。

 

<天才か狂気か>

1930年6月2日。サンシーロ競馬場で行われたGran Premio d’ItaliaでテシオのGerardがデ・モンテルのSciaccaに敗北した前座レースPremio Besnate(1,000m)でNogaraはデビューしました。結果はデ・モンテルのCameranoに大差をつけての1着。テシオはGerardの敗北をNogaraの圧勝で少しは癒せたかもしれません。

 

その後Nogaraは、Cavaliere d’Arpinoが勝ったGran Premio di Milanoと同日Premio Primi Passi(1,100m)で勝利。そしてあれよあれよと5連勝でCriterium Nazionale(1,200m)に勝利しました。

 

1930年はテシオ未完の最高傑作Cavaliere d’Arpinoやデ・モンテルのOrtello。イタリア競馬最初の黄金期であり、テシオとデ・モンテルの対決にイタリアの競馬ファンたちが熱狂していた時代です。

 

Nogaraもライバルたちと何度も熱戦を繰り広げました。10月のGran Criterium(1,500m)は1番人気に押されましたが、重馬場の上に出遅れてRazza di StupiningのAlenaが見事な逃げを打ち、Nogaraは追い込んでの2着。暮れのPremio Chiusura(1,400m)ではデ・モンテルのGaleataに大差負けを喰らい、この時点でNogaraには天才的な快速力と狂気の暴走力が同居しているとテシオは気づいたかもしれません。

 

<本能スピード>

3歳になったNogaraの走りは明らかにスプリンターそのものでしたが、この時代短距離馬というカテゴリーが明確にあったとは思えません。どんな馬でもクラシック路線を目指すのが当たり前の時代でしたから、NogaraはPremio Regina Elenaに出走。1,600mを駆け抜け、翌週はRazza del SoldoのGlemirenに人気を譲ったもののPremio Parioli(1,600m)も連勝しました。

※テシオからすれば牡馬でPremio Parioliだけを勝つよりも、牝馬でPremio Regina ElenaとPremio Parioliを連勝する方が、お得で簡単に稼げると思っていたそうです。(Nogaraの他にテシオが連勝したのは、Delleana(1928)、Jacopa del Sellaio(1932)、Bernina(1934)らがいる。

 

4月のPremio Pisa(1,600m)に勝利したNogaraに対してテシオは、来るOaks Italiaに向けて一度2,000mを走らせようとPremio della Vittoria(Premio Principe Emanuele Filiberto)に登録しました。ライバルと見られたのはAlena、Deltaでしたが勝ったのは伏兵のSalpiglossisでNogaraは4着に敗れました。やはり2,000mは適正距離ではなかったのです。

 

しかしテシオはNogaraをOaks Italiaに出走させました。それがテシオの望むサラブレッドだからだったのかもしれません。メディアはNogaraを「優秀だがスクーデリアの最高ではない」と評しました。Oaks Italiaは着外に敗れました。

 

Nogara最後のレースは暮れのPremio Chiusuraでした。翌年四冠を達成する2歳のJacopa del Sellaioも出走していましたが、共に着外に敗れ引退しました。

 

普通に考えればNogaraは1,600mまでを得意とした快速のスピード馬で、どちらかといえば成長力に欠けた早熟傾向のある短距離牝馬でした。同じHavresacIIを父を持つCavaliere d’ArpinoやErbaには成長力がありクラシックディスタンスもこなしましたから、Nogaraには別の要因があったのかもしれません。

 

<黄金の繁殖牝馬>

そしてNogaraが引退して3年の月日が流れた1935年1月24日。ドルメロ・オルジアータ牧場で黒鹿毛の馬が産まれました。彼は元気いっぱいに放牧地を駆けるのですが、Nogaraは彼の姿を見失うと悲痛な声で呼び戻します。その声を聞きつけた彼は慌てて母に駆け寄ると、Nogaraは彼を優しく愛撫しました。その黒鹿毛の馬は後にNearcoと名付けられ名馬、名種牡馬になるのですが、この時はまだ母に甘える元気な仔馬でした。

 

Nogaraの産駒

1933 Nicoletto da Modena 牡 父Sagacity  Premio Grecoなど。中堅級。Gran Premio del Re(Derby Italiano)には同厩舎のEttore Titoと一緒に出走。Ettore Titoをサポートして勝利させることに貢献。現役中にScuderia Sevaso(Forianini Berr)売却される。

1935 Nearco 牡 父Pharos 14戦14勝 説明不要の名馬にして名種牡馬

1938 Niccolo dell’Arca 牡 父Coronach 15戦12勝 問答無用の伊三冠馬 戦時中のテシオやイタリアを支えた伊首位種牡馬

1939 Nicolaus 牡 Solario 25戦9勝 Premio Verbeneなど。オープン級。ミラノ大賞ではTokamuraとOrsenigoに挑むも敗退。

1940 Nakamuro 牡 Cameronian 3戦2勝 Premio Principe di Napoli等 Orsenigoに負け続けた。Molvedoの母の父。

1941 Nervesa 牝 Ortello 4戦1勝 Premio di Diana(Oaks Italia)。名繁殖牝馬。子孫にフォルティノなど多数。

1942 Niccolo d’Arezzo 牡 Ortello 15戦2勝 Premio Leccoなど

1945 Naucide  牡 Bellini 8戦6勝 Premio Chiusuraなど。1948年のDerby Italianoは疑惑の3着。同僚のEudros、さらには優勝馬のLeon de San Marcoとともに毒物を飲まされるという、ダービースキャンダルに巻き込まれるも、テシオは自厩舎のスタッフを誰も疑わないと口をつぐむ。

1947 King of Tara 牡 Torbido 英国で4戦0勝 Nの頭文字を持たないことから、馬主はテシオ、ドルメロ牧場でないと思われる。

 

参考

il Mito di Tesio

 

※最近ちょっと真偽疑わしい情報もあるような気がします。