La Stampaのアーカイブを見ていると、1992年テシオ・インチーサ厩舎、ドルメロ・オルジアータ牧場の解散、消滅の記事を見つけました。あれ?と思ったのですが、読んでいるとなるほど…と、さみしくも納得するような話でした。いつもの想像と妄想での翻訳ですし、登場人物やニュースも、イタリアの新聞ですからイタリア寄りの話になっていますが、よろしければご一読くださいませ。

 

La Stampa 1992年8月12日号

La Stampa 1992年8月22日号

 

 

ラ・スタンパ - 1992 年 8 月 22 日土曜日より

偉大なる厩舎とのお別れ

 

 偉大なる名馬Ribotを育んだドルメロ・オルジアータ牧場、テシオ・インチーサ厩舎は財政難のため解散します。ドルメレットの牧場とミラノやボルゲリの厩舎に残された、約50頭のサラブレッドたちはイギリスで売却され、厩舎には何も残らないでしょう。マッジョーレ湖の畔の街では、これは驚くべきニュースではありませんでした。なぜなら街の人々は、魔術師フェデリコ・テシオの時代はもう失われていることに気づいていたからです。

 

 かつて修道院が存在した美しい牧場には、もはや過去の熱狂的な活動はありません。

 かつてテシオはこの土地を購入して、牧場、厩舎、スタッフの住居、必要なものすべてを揃えました。放牧地には馬の為の約30ヘクタールの牧草地があり、最盛期には何十人ものスタッフが働いていました。

 

 1869年1月17日にトリノで生まれたテシオは、インド、中国、日本、カナダ、アメリカを旅した後、アルゼンチンの大草原で馬から大きな感動を受けました。テシオは騎兵隊の将校でもあり、馬に精通していました。1898年にイタリアに戻り、リディ・フィオリ・ディ・セラメッザーナと結婚したテシオは、サラブレッドの繁殖に適した気候、牧草、湿度の土地を探し、北イタリアのアローナにあるドルメレットを見つけました。

 

 テシオは五十年の間に、Ribot、Botticelli、Donatello、Toulouse Lautrec、Tenerani、Nearcoなど、有名な芸術家の名前を持つ偉大なサラブレッドを生産しました。第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて、ドルメロ牧場は輝きを放っていました。

妻ドンナ・リディアは、文化人、芸術家、政治家の男性たちを招いたサロンを開催するのが好きでした。テシオの個性に惹かれたウィンストン・チャーチル、ピエモンテ王子、アガカーン三世もドルメロ牧場を訪ねました。アローナ出身の会計士グラツィアーノ・マラルディは32年間、ドルメロ牧場を管理運営しました。

 

※Graziano Maraldi(1923~2020)

 ドルメロ・オルジアータ牧場、テシオ・インチーサ厩舎の管理、運営を行っていた人物。

 1923年9月7日アローナ生まれ。第二次世界大戦中はレジスタンスとしてムッソリーニとファシスト党と戦い、イタリア解放に尽力しました。1947年、ドルメロ・オルジアータ牧場の会計士だった父の後を継ぎ、晩年のテシオを支えました。1955年、Ribotが凱旋門賞を制した時ロンシャン競馬場にもいたそうです。それから1970年の半ば頃までドルメレットの牧場、ミラノの厩舎、ボルゲリの育成場など運営、管理で支えました。老後はミラノでアンティークショップや家具店を開いたり、アローナでライオンズクラブを設立して多くの人々から愛されました。(さえこ:初めて聞く名前です。最近まで存命だったことにも驚きです。彼のお父さんが、ドルメロ牧場の会計士をしていて、その後を継いで70年代まで牧場の経営を支えた人物がいたというのは初めて知りました。テシオは名目上とはいえ、ファシスト党だったこともあるので、元レジスタンスのマラルディが会計士として支えていたのは中々興味深いです)

 

 

 

 

 1954年のテシオの死後、牧場はマリオ・インチーサ・デッラ・ロッケッタ侯爵に譲渡されましたが、生産活動は益々厳しくなりました。シンプロン州道から牧場に通じる長い日陰の道は、今や一日中閑散としています。かつて偉大な名馬が繋がれた厩舎も、あと数か月で何一つ痕跡は残らないでしょう。

 

 牧場と厩舎が残される可能性は分かりません。馬がいない状態では、牧場を維持することはできません。悲観論者はすでに牧場の跡地には、湖の為の港やアパートが建つだろうと嘆いています。

 

 たぶんこの辺もほとんど牧場だったと思う。

 

 

1992年8月12日号より

偉大なリボーの「ゆりかご」の別れ

 

 ドルメレットでは、およそ 40頭のサラブレッドの牝馬がインチーザ・デッラ・ロッケッタ侯爵の別荘から、マッジョーレ湖に向かって降りる牧草地に放牧されています。馬たちは非現実的な沈黙の中で、Razza Dormello Olgiataでの最後の夏を楽しんでいます。

 

 最も権威があり、最も裕福で、最も有名なイタリアの厩舎は1992年末にその扉を閉めます。市場性のある血をもつ馬たちは12月イギリスで売却されるでしょう。その他の馬たちはミラノでオークションにかけられます。牧場はシェイク・モハメドによる欧州競馬の独占と、3年前に起こった仔馬の盗難により起こった深刻な経済的危機のため閉鎖されます。

 

 イタリア、そしておそらく世界最強のサラブレッドであるリボーのジャケット(白と赤のサンタンドレアクロス)はターフから消えます。リボーは、16戦16勝の無敗で引退し、アメリカへ渡りました。しかしドルメロ・オルジアータには、イタリアダービー29勝を含む、何千もの勝利があります。かつては、Nearco、Cavaliere d’Arpino 、Tenerani 、Botticelli。最近では、Tissot、Braque、Ruysdeal、Tierceron、Mansfeld、Marracci、Garrido、Tisserandたちは赤と白のジャケットの騎手に彩られていました。

 

 ドルメロは約80年の活動を終えます。始まりはフェデリコ・テシオ(トリノ出身の偉大な生産者)が、1930年代前半からはテシオとインチーサ侯爵と共同で、1940年代からはRazza Dormello Olgiataの名前でした。閉鎖されるのは経済的な理由です。牧場の跡地は既に売却や農耕に利用されるなど、様々なプランが上がっています。5年前(1987年頃?)、ニコロ・インチーサがスクーデリアの活動をほぼゼロに減らし、繁殖牝馬とその仔馬を売却することだけに方針を変更した時、予想されていたことでした。

 

この右側は全部牧場だったそうです。今は別荘地。

 

 

 それは当然の選択ですが、欧州で行われたサラブレッドのセールでDormello Olgiataの仔馬たちが受けたのは不幸な評価でした。

現代のサラブレッドに求められるのは早熟で、早く稼ぎ始める能力であるのに対して、長距離とクラシックを目標とする為に代々重ねられてきた血統の仔馬たちは現在のスピード競馬には対応することができなかったのです。(芦毛のTisserandはイタリアダービーに勝ち、欧州で最も盛んな距離に対応できましたけれど)

 

さらに決定的な問題として、3年前牧場から6頭の仔馬が盗まれたことでした。6頭はその年で評価の高い牡馬でした。数年後、カンパニアで発見されますが、カモッラ(マフィア)の行う草競馬で使われていました。

 

 素晴らしい緑に囲まれたドルメレットの牧場では、生まれたばかりの仔馬とその母馬の住まいです。またボルゲリにはトレーニングセンターがあり、ここでは仔馬が競争活動にむけて調教されています。かつては、ローマのカパネッレでも牝馬が調教されていました。

 

 ニコロ・インチーサ・デッラ・ロッケッタ侯爵は、今後の事は不透明だと言います。

 解散の決断をするのは容易なことではありませんでした。今年はまず、牝馬と1歳馬、生後18か月までの馬が売却される予定です。しかし、生後5~7か月の幼駒の運命はまだ分かりません。(およそ20頭の素晴らしい血統の馬たちです)彼らが、新しい繁殖の基礎になる可能性はゼロではありません。

 

「質の高いトレーニングと、毎年外国の種牡馬と私たちの牝馬を何十回も交配させるための渡航費用は決して安くはないのです」と、ニコロ・インチーサは答えました。1992年、クウェートのシェイク・モハメドは、アガ・カーン四世に12頭の牝馬を1200万ドルでの売却に迫りました。シェイクは、最高品質のサラブレッドを独占している状態で、Allevamente Nationale、La Scuderia Mantova、La Razza Spinetaなどイタリアの有名な厩舎も閉鎖に追い込まれました。

 

 Razza Dormello Olgiataの閉鎖は、イタリア国内で行われる主要なレースの大部分の勝利を外国人に譲ることになってしまうかもしれません。Ribotを再現することはできません。しかしSirladではだめなのです。なぜなら競馬が成長するためには、夢を見ることが必要不可欠だからです。(Sirladは1974年アイルランド産の牡馬。イタリアで走り、イタリアダービーやミラノ大賞に勝ちました。Sirladは優秀ですが、Sirladを目標にしていてはダメだ。Ribotのようにスケールの大きいサラブレッドを目標にしなければイタリア競馬の発展はない、と言いたかったのかなと思いました)

 

※その後

 結局、ドルメレットのほとんどの牧場地は売却され別荘地やキャンプ場などに転用されました。(Surga、Montaccio、Rotta、Moretta、Cucchetta、Torbera、Motta)しかしRottaはポニー牧場として残り、Cucchettaは馬牧場のある瀟洒なホテルとしてリノベーションされました。調べていませんが、他にも名残があるかもしれません。

 

 

おそらく元Rotta とても優しいお婆さんが住んでました。

 

 そして本場は、テシオ夫妻の家と厩舎、小さいですが牧場は残されました。現在は、Niccolo Incisa della Rocchetta(かなり高齢なので、その息子か孫かもしれない)侯爵の会社、Società Agricola C.I.T.A.I. spa グループの一つとして残り、Razza Dormello Olgiataの名前も残されています。

 

 2019年ドルメレットで生まれ、2022年のフェデリコ・テシオ賞(サンシーロ2200m)に勝ったTempesti(父はディープインパクト産駒のアルバートドック、2022年イタリアの首位種牡馬!)は、白と赤のサンタンドレアクロスの勝負服を着たランフランコ・デットーリを背に走る姿が、在りし日のリボーとエンリコ・カミーチのようで、私はとても嬉しかったです、はい。

 

TempestiとL.Dettori

 

※おわりに

 むかーし、フェデリコ・テシオのWikiで、1992年ドルメロ牧場は閉鎖された、と書かれていて、その後ドルメロ牧場に行ってまだあるやん!と思ってましたけど、確かに一度は閉鎖、もしくは閉鎖の危機があったんですね。あの文章を書いてくださった方に感謝。