Braque 1954年 牡馬 イタリア産

父Antonio Canale  母Buonamica 母の父Niccolo dell'Arca

 

 

 1954年5月フェデリコ・テシオが天に還った時、厩舎と牧場には多くの優駿が残されていました。代表的な馬として3歳Botticelli。2歳Ribot。1歳Tissot。そして、生まれたばかりの幼駒の中にテシオが最後に名付けたというBraqueがいました。

 

 Braqueの父はGran Premio Milanoなど長距離に強かったAntonio Canale、母Buonamicaは未勝利ながらもBotticelli、Barbara Sirianiらを産んだテシオ、最後の名繁殖牝馬。Ribotと同じくその血統に多くのドルメロ血統が散りばめられているので、テシオ到達点の1頭だと思います。

 

 

 Braqueはテシオの薫陶を直接は受けませんでしたが、ドンナ・リディアとマリオ・インチーサ侯爵の元、先輩Ribotと同じくUgo Penco調教師とEnrico Camici騎手のコンビでデビューしました。記録が見つからなかったのですが、おそらく2歳でデビューして勝利していると思われます。しかし、いわゆる2歳G1は勝っていません。同期のGrigorescoが、2歳チャンピオン戦のPremio BimbiとCriterium Nazionaleに勝利しました。さらに3歳の春も休み休みで、クラシック初戦Premio Parioliも不出走です。

 

 何故でしょうか。BraqueがCavaliere d’Arpinoのように病弱だったという雰囲気はありません。それどころか、下級条件とはいえ将来を嘱望されるほど強い勝ち方をしていたようです。色々と調べてみてなんとなーく、さえこ的にもしかして?と思うことがあります。それは、Braqueは天才であり“なまけもの”だったのかもしれないことです。以下、妄想です。

 

 Braqueは調教が大嫌いで一生懸命走りません。そのくせ大食漢なのでいつも太目残り。困り果てたUgo Penco調教師はレースで絞ろうとしますが、当然苦戦。一応、最低限勝つことはします。それでもBraqueは知らん顔。「働いたら負けと思ってる」と言ったかどうかは分かりませんが、馬体重を絞って本番に挑むと、今度は圧倒的な着差をつけて勝利してしまうのです。

 

 実に憎たらしい奴です。授業中ずっと寝ているクセに、試験になると満点ばかりのイヤな奴。他の馬は苦しみに耐え人間たちに鍛えられ、ようやく掴む勝利がBraqueには好き勝手していて手に入ってしまう、生まれついての天才。それがBraqueなのです。(妄想)

 

 1957年の春。BraqueはPremio Pisaは勝利したようですが、Premio Emanuel Filibertoは不出走。Premio Parioli(伊2000ギニー)もキャンセル。Premio Principe Amedeoも取消。原因はいつも調整不足(デブ)…。にもかかわらず5月、当時のイタリア大統領Giovanni Gronchiとフランス大統領Rene’ Cotyが観戦する中、BraqueはDerby Italianoを1番人気で迎えたのです。朝日杯もホープフルSも皐月賞も勝っていない馬が、日本ダービーにでてきて圧倒的な1番人気になるようなものでしょうか。

 

 精悍な馬体と闘志溢れるBraqueに、他の馬は敗北するしかありません。Premio Parioliを勝ったGiovianoも、Premio Emanuel Firibertを勝ったChitetも、Braqueの5馬身後ろでゴールしました。勝ちタイムは2:30:24でレコードタイム。それも稍~重馬場だったそうです。

 

1957年Derby Italiano

1. Braque (.58. Camici)  2:30:24 5馬身差

2. Chitet (58. Parravanl) 

3. Aleppo (58. Andreucci) 

4. Gioviano (58, Fancera)

5. Courmayeur (58, Gabbrielli) 

6. Salvador (58, Cipolloni)

7. Permon (58. Bugattella) 

8. Damigella (56, Rosa).

 

 

 無敗で6勝目をあげたBraqueはこの年の夏まではしっかりと走りました。Gran Premio d’Italia、Gran Premio Milanoを連勝して8勝。夏は古馬に混じってハンデ戦を勝ち、迎えた秋、St Leger Italianoを10馬身差で勝利しました。英St Legerに挑戦するプランもあったようですが、やはり調教不足が懸念されて取り消したようです。

 

1957年 Gran Premio di Milano

1,Braque(E Camici) 3:11:2/5 8馬身差

2.Persio

3.Andran

4.Etrusque

5.Pasquallino

6.wild

 

 それでもBraqueには先輩Ribotと同じ道、つまりGran Premio Jokey Clubに勝利して凱旋門賞へと挑むプランが立ち上がります。凱旋門賞での相手は英ダービー馬Crepelloや英Stレジャー馬Ballymossです。(結局どちらも出走せず。勝ったのは人気薄のOroso)しかし、またもやBraqueは出走を取消。理由はいつもと同じ、調教不足で太目残りでした。

 

結局Braqueは一度も国外で走りませんでしたが、イギリスのスポーティング・ライフ誌は1957年欧州3歳馬の部でBraqueを1位としました。それもCrepello、Ballymossを抑えてのことです。(Crepelloの父はDonatello II、Ballymossの祖父はNearco。この年、欧州競馬はドルメロ・オルジアータ血統に席捲されていますね)

 

 その後Braqueは連勝を12まで伸ばした後、1958年引退しました。理由は分からないのですが、欧州の強豪との対決よりも、名誉のため無敗のまま引退させたかったのかもしれません。Braqueにはイギリスから数億ドルでの購入の打診があったようですがドンナ・リディアとマリオ・インチーサ侯爵は断りました。Ribotもそうですが、テシオが存命ならさっさと売却していたかもしれませんね。

 

 不幸なことにBraqueは1959年6月12日ローマで死亡しました。死因は胃穿孔。そのニュースは小さい紙面ながらも、多くのイタリア人に衝撃を与えました。わずか1世代しか産駒を残せませんでしたが、その強さは今も多くのイタリア人たちの記憶に刻まれています。

 

 La Pigra(なまけもの)といわれたBraqueですが、私はとても繊細な性格だったのではないかなとも思います。生まれながらにしてフェデリコ・テシオ最後の傑作と言い続けられ、兄、姉の活躍により勝つことが当然と義務付けられてきたのです。馬はとても繊細で賢い生き物です。Braqueは、そんな人間たちの気持ちを強く感じ取っていたのだとしたら。彼はなまけものなのではなく、時に傷つきストレスで過食になるものの、我慢強く、人間たちの期待に応えるべく努力するサラブレッドだったのかもしれません。

 

戦績12戦12勝(わかるだけ)

1957/4 Premio Pisa

1957/5 9 Derby Italiano 6勝目

1957/6 Gran Premio d’Italia

1957/6 Gran Premio Milano 8勝目

1957/8 Gran Premio Città di Varese

1957/9 Premio Boschetti

1957 9 St Leger Italiano 11勝目

 

代表産駒

Calamide(唯一のステークスレース勝ちの牡馬、アメリカに輸出されわずかに血統を残す)、Domenichina(日本へ輸出された牝馬)

 

参考