トロットのサンシーロ競馬場でのスタート風景。馬の前を、ハシゴを広げたような車が先導している風景を見た時、びっくりしました。
夜のレースです。
<徹底>
テシオは、毎年生まれてくる数十頭の生産馬の中で、才能ある馬をエースに選出しました。
それらエースにはフェデリコ・レゴーリやエンリコ・カミーチら、一流の騎手に手綱を託し、レースが始まるとその選出されたエース絶対主義で、エースに勝たせるための多頭出しや、露骨なチームオーダーも平気でやりました。(それらは現代の欧州競馬でもよく見る行為であり、競馬はチームワークが必要であると認識させられる部分でもあります)
サラブレッドや競馬を愛したフェデリコ・テシオですが、冷酷な面もありました。
顕著だったのが、牡馬に対してです。どれほど活躍を見せた馬であっても、高額のオファーがあったときは、あっさりと手放しました。また、理由もなく、タダ同然で引き渡したことも、一度や二度ではありません。
テシオにとってサラブレッドの生産と競馬は、楽しみであると同時に研究でもありました。思い通りの結果になったり、ならなかった場合、その対象であるサラブレッドは用済みとして手放しました。その時のテシオは他人からみたら、とても冷徹な人物に見えたかもしれません。「どうしてあれほど苦労して手に入れたサラブレッドや、名誉をもたらしたサラブレッドを、あんなに冷たく突き放すのだろう」そう言われたこともあったかもしれません。
<サラブレッドビジネス>
フェデリコ・テシオは、サラブレッドビジネスだけで、生活しようとした最初期の人物でもありました。彼は広大な領地を持つ大貴族でもなく、大きな会社を経営する大資本家でもありません。家族やスタッフを養い、サラブレッドの研究や生産を続けるために、レースで賞金を稼ぎ、サラブレッドを売買して、資金を得る必要がありました。
綺麗事だけでは、傲慢な貴族や、強かな資本家達とサラブレッドによるビジネスを続けていくことは難しかったでしょう。テシオが社交的であったという資料は少なく、また一般的なピエモンテ人に共通する、ブージャネンという、頑固な気質だったとも伝えられます。そんなテシオにとって、貴族出身で、見栄え良く、貴族の文化に詳しい妻リディアの存在はきっと大きかったに違いありません。テシオは日々、どうすれば効率よく資金を得ることができるのか、ということを考え続けたことでしょう。
記録や結果だけを見返して考えてみれば。
①イギリスで、血筋は悪くないのに、高齢だったり、競走成績が良くなかったり、何らかの理由で安価な牝馬を買う。
②その牝馬にイギリスの人気種牡馬やイタリア国内の人気種牡馬をつける。
③生まれた子が、牡馬の場合は引退後、種牡馬として売る。牝馬の場合は引退後、一度牧場に戻して、再びイギリスの種牡馬や国内で流行の種牡馬を付ける。
④牝馬も、良い買取オファーがあった場合は売却する。
このようなサイクルだったのではないでしょうか。
当時のイタリア競馬界では、やはりイギリスの名馬の血が喜ばれたので、テシオは無理してでも、イギリスの血にこだわったのかもしれません。それはオールイタリアに固執しない、常に生産スタンスを変更する。言い換えればイタリア人らしくなく、一貫性のない手法だったのかもしませんが、イギリスのすぐれた血や柔軟な生産は多くの資金をもたらしました。
ナショナリズム。国粋主義という考え方は、時代や場所、文化によってその捉え方が変わると思いますが、誤解を恐れずに言うならば。二十世紀初頭は、世界中でナショナリズムが叫ばれた時代だったと思います。「すべて、自国のもので揃えよう!なぜなら、それが我が国の優秀性を世界に示すことになるから!」という考えになるのは当然ですし、イギリスやフランスなど、自国ですべてを賄えた国は、わざわざルールでそう制定することだって出来たはずです。
ただ。競馬に関してはその発祥がイギリスで、サラブレッドでなければサラブレッドに非ずですから、他の選択肢がありません。それでも、イギリスから購入してきたサラブレッドを代重ねして内国産にして、馬主、調教師、騎手を自国で揃えて、いざ世界と戦おう!という考えになるのも、当然だと思います。
テシオよりもさらに柔軟だったのは、ライバルのデ・モンテルでしょう。彼はそもそも内国産に拘らず、積極的にフランスや英国で競走馬そのものを購入して、イギリス人の調教師やコーチを雇っていたようです。それは彼が、ユダヤ人の銀行家で、ナショナリズムという考え方にさらに複雑で幅広い思考があったからかもしれません。
ナショナリズムを謳うイタリア人ホースマンの中で、早くにイタリア人の両親を失い、英国式の教育を受けた故に、テシオはイタリア人らしさに固執することがなかったのかもしれません。(しかしそれは、血統や家族を誇りとするイタリア人の中では、彼の悩みでもあったかもしれない)

フェラーリ166 F2 1951
※少し脳裏を掠めるのが、スクーデリア・フェラーリはエンツォ・フェラーリのオールイタリアとフェラーリらしさへの固執により、成功するときと大失敗するときが顕著で、結局、エンツォの死後は固執しなくなりました。
また、種牡馬を所有することにこだわりませんでした。イギリスやフランスから、種牡馬を購入してきた事は一度もありませんし、むしろ、どのようにしたら自分の馬が高額で売れるのか?ということに試行錯誤しました。一番わかりやすいのは、やはりレース結果です。八百長をした、とは思いませんが、1ポンドでも高く売れるように、種牡馬として成功しそうだ!と思わせるようなパフォーマンスを見せるように、努めたに違いありません。
昔読んだ吉田善哉さんの伝記「血と地と知」で、種牡馬を買うというのはギャンブルで、自分の手がポーカーで言うロイヤルストレートフラッシュだと信じて勝負するようなものだ、という言葉が印象的でした。(息子の照哉さんの言葉だったかも)テシオは、そのようなハイリスク、ハイリターンの勝負をする気はなかったのでしょうか。そういえばこの本には、ドルメロ牧場のある部屋の時計は、フェデリコ・テシオが亡くなった時間で止められていると、あったと思います。見てみたいですね。
牝馬であっても、興味を失ったり、買取のオファーがあった場合、あっさりと手放しました。とくにCatnipから始まるNラインの牝馬は、NearcoやNiccolo dell'Arcaをはじめとする活躍馬をだしたおかげで人気があったようです。ドイツや、その末裔は日本にも来ました。
また、イタリア競馬の発展のために、イタリア国内の種牡馬場に提供することも多かったようです。(もちろん無料とは思いませんが)第二次世界大戦中は、ドイツ軍から飼葉を得るためや、ヒトラーを喜ばせるために引き渡したこともあるようです。(ブサックの馬たちは、ナチスの手により不幸な道をたどりました)
しかし、ムッソリーニとファシスト党の台頭と第二次世界大戦の戦乱は、テシオのイギリスへの買付や種付けを断念せざるを得ませんでした。なにせイギリスやフランスから見れば、イタリア人のフェデリコ・テシオは敵方です。ダービー伯爵やブサックとは友人であっても、どうしても超えられない壁があったことでしょう。
それでもテシオはサラブレッドの生産や競馬をやめるわけにはいきません。生活があるからです。(もちろん、好きだからでしょうけど)自由に種付ができなければ、国内でできる最大限のことをしなければなりません。その一つが、自分で生産した馬を種牡馬に使うことでした。テシオが自身の生産馬を種牡馬に使ったのは案外と古いです。1920年代には、Burne JonesやMichelangeloを用いています。しかし、それは資金不足や実験などの例外という感じで、本格的に使うようになったのは、やはりファシズムが強くなった頃で、Cavaliere D'Arpinoを多く使うようになります。その時に得た一頭がBellini(1937)です。また、ライバルのデ・モンテルのOrtelloを寵愛して多くの名馬を得ました。見つけただけでも35頭。これは、Niccolo dell'Arcaの48頭に次ぐ二番目の多さです。
旧トリノ・ポルタスーザ駅。ここからミラノにも、パリにもいけます。必ずテシオも通った駅です。私は最後の日、ここからパリ〜アムステルダムまで電車に乗って帰国したので、思い出深い駅でもあります。
1941年から1949年頃まで、テシオは一度もイギリスの種牡馬を種付していません。
そのことを説明したり、理由を探す必要はないでしょう。
しかし、テシオは生産を中止しません。1942年、イタリアは北アフリカで激戦となり、もはや競馬どころではないという状況下であっても、テシオは生産を止めませんでした。
もしこの時、テシオが生産を中止していたとしたら、あのRibotが生まれることはありませんでした。なぜなら、Ribotの父Teneraniは1944年、母Romanellaは1943年の生産だからです。Ribotは、テシオ生産馬の直系と讃えられることが多い名馬ですが、Cavaliere D'Arpino-Bellini-Teneraniと、戦時中で自由な種付けができなかった中、テシオが工夫を凝らして得た名馬でもあったのかもしれません。
そして戦後。ファシスト党の協力者と見なされたテシオはしばらく不自由な生活を強いられていましたが、1948年にはイギリスのグッドウッドカップにTeneraniで勝利します。
(※このレースではマルセル・ブサックのArbarに勝利したのですが、多少疑惑の勝利であった、との記録もあります)そして、この年の凱旋門賞ではAstolfinaとTrevisanaの二枚看板で挑戦。一、ニ番人気を背負いながらも、屈辱の最下位、ブービーとなってしまいました。
しかし、競馬で喜んだり、悔しがったりしたことで、79歳になったフェデリコ・テシオに最後の情熱を燃え上がらせたのかもしれません。
ロンシャン競馬場の入り口
<Prix de l'arc de Triomphe>
フェデリコ・テシオは存命中、凱旋門賞を勝利することはできませんでしたが、何度か凱旋門賞に挑戦したり、関わったりしました。
1923年 Scopas (F. Regoli) で初挑戦。結果は5着。勝ったのはParth。
1929年 ライバル、G・デ・モンテルのOrtello(P.Capriori)が勝利。Ortelloには国内で何度か勝利しています。
1932年 生産馬Sanzio(P.Donohue)が着外。馬主はルキノ・ヴィスコンティ 勝ったのはMotrico。
1933年 ライバル、マリオ・クレスピのCrapom(P.Capriori)が勝利。Crapomの父はテシオの生産馬Cranach。
1947年 ミラノ大賞でTeneraniが負かしたFante(J.Pacifici)が4着。
1948年 イタリア大賞、イタリア・セントレジャーを勝ったTrevisana(E.Camici)、イタリア1000ギニー、イタリアオークス、ミラノ大賞、イタリア・ジョッキークラブ賞を勝ったAstolfina(P.Capriori)の二頭で挑戦。おそらく、これほどまでに充実した気持ちで、挑戦できたことはなかったでしょう。きっとテシオは観覧席で、どきどきしながら眺めていたでしょう。しかし、まさかの惨敗。Trevisanaは14着、Astolfinaは13着。勝ったのはアガ・カーン三世のMigoli。
Youtubeで発見しました。どちらかが最後、故障してます?二頭とも繁殖に上がっているので、命は無事だったと思います。みなさまの解釈はいかがでしょうか。
その時の思い出があったのか、Migoliが気に入ったのか、Astolfinaには一度Migoliを配合した事があります。
そして1955年、1956年 Ribot(E.Camici)へ。
つづく



