Ortello 1926年 イタリア産(フランス産という説もある) 栗毛

父Teddy 母Hollebeck 母の父Gorgos

 

 

 天才馬産家フェデリコ・テシオは自分の馬を評価することは少なく、他人の馬を大いに評価する人だった。

 名馬にして名種牡馬のネアルコですら「良い馬だよ。丈夫で良く走るんだ」と控えめな評価ぐらいしかしないのだ。

 そのかわり、ライバルやイギリスのサラブレッドに対しては嬉しそうに褒めることが多かった。

 その中で特にお気に入りだったのが、ジュゼッペ・デ・モンテルのオルテッロという栗毛の馬である。

 

 1920年代はイタリア競馬の黄金期だった。より良い馬、より良い種牡馬、繁殖牝馬を求めてテシオやイタリア人生産者たちはイギリスやフランスへ東奔西走し、イタリアの競馬レベルは各段にレベルアップした。

 そんな時代に現れたのがジュゼッペ・デ・モンテルだった。

 ジュゼッペ・デ・モンテルはローマで銀行業を営むユダヤ系イタリア人で、残された写真を見る限りスマートで背が高く、立派な口ひげを蓄えた正にジェントルマンというべき風貌をしていて、ずんぐりむっくりした体形で、いつも難しい顔をしているテシオとは好対照。競馬に対する関わり方も異なっていて、イギリスのサラブレッドにこだわり、生産、育成、調教も自分で行い、勝利至上主義のテシオに対して、デ・モンテルはフランス産馬を好んで購入して、イギリス人調教師を雇うというスタイルで勝利よりも名誉を重んじていた。

 

 オルテッロも、母ホールベックはイタリアで走ったがフランス産で、父はフランスの名種牡馬テディというのだから、当時デ・モンテルが好んだ配合といえるだろう。

 1928年、デビューから3連勝したオルテッロは2歳チャンピオン戦グランクリテリウムに出場するが、まさかの敗北を喫してしまう。しかしデ・モンテルの信頼と期待は厚く、11月のサンシーロ競馬場のキウズーラ賞で先輩のエルバ(牝馬3歳)を下してデ・モンテル厩舎のエースとなる。

 ハンデ戦とはいえ、2歳馬がその年のオークス馬エルバに勝つのだから相当な実力だったのだろう。3歳になってもオルテッロは絶好調。最大目標は当然イタリアダービーだった。

 

 オルテッロがターフを賑やかせているころ、王者テシオにはオルテッロに対抗できる馬がおらずオルテッロの活躍を眺めているだけだった。テシオは13年間で10回もダービーに勝つような人物である。また昨年はデ・モンテルのエルバとテシオのデレアナの対決に、ファンたちは大いに盛り上がった。それ故に、テシオ本人だけでなく、テシオファンたち(テジアーニと呼ばれた)は特に悔しがったらしい。

 

 テシオファンのテジアーニと、デ・モンテルファンのモンテリーニのエピソードは、現在のイタリアサッカーファンたちと変わらぬ熱狂ぶりを当時の新聞は伝えている。モンテリーニから言わせるとテジアーニは下品で、テジアーニから言わせるとモンテリーニはキザったらしいというのだから面白い。私が昔トリノで見たユベントス対インテルやフィオレンティーナとのファン同士の罵り合いを思い出してしまう。イタリア人たちは昔からスポーツで盛り上がるのが好きなのだ。

 

 オルテッロは満を持してイタリアダービーに臨んだ。この頃、テシオはようやくジェリコーという牡馬を用意できたが、とてもオルテッロに対抗できるほどのレベルには達しておらず、イタリアダービーはオルテッロが王者の風格、と称えられるほど堂々としたキャンターで快勝。続くイタリア大賞ではジェリコーに詰め寄られる場面があったものの、きっちりと勝利して3歳世代では敵なしとアピール。そしてイタリア競馬、上半期の大一番ミラノ大賞を当然の一番人気で迎えることになった。

 

 毎年6月下旬、サンシーロ競馬場芝3000mで行われるミラノ大賞は春のイタリア競馬総決算ともいうべきレースで、国内外から名馬が集まる。この年はフランスからロスチャイルド男爵のパンソーが参戦。テシオはネアルコの半兄になるネシオテスを出走させたが、終わってみればオルテッロの圧勝。さらにネシオテスは5着でテシオを失望させてしまう。そしてデ・モンテルは、この秋パリの凱旋門賞へオルテッロを出走することを宣言する。これまでテシオを含めたイタリア人たちが挑んできた凱旋門賞であるが、1923年、テシオのスコパスが5着になったのが最高位だった。

 

 イタリアの競馬というのは19世紀の終わりにイギリス人たちがもたらし、イギリスやフランスの模倣から始まった。当時、未開のイタリアにやってくるサラブレッドは本国では二流や三流の種牡馬や繁殖牝馬ばかり。その中から原石を見つけ出し磨き上げ、ようやくイタリアから勝負になる馬を生み出すことができたと、イタリアの新聞やファンは得意気だったが、フランス競馬を熟知するデ・モンテルは不安と憧れへの挑戦が入り混じる思いだった。

 

 1929年第10回を数える凱旋門賞には、地元フランスからは前年の凱旋門賞馬で連覇を狙うカンター、ドイツ最強馬にして後に名種牡馬と称えられるオレアンダー、後にヴァテラーやボワルセルらの父になるヴァトゥー、その中にイタリア代表のオルテッロが加わり、国際色豊かで粒ぞろいの名馬が揃った。

 

 残念ながらオルテッロへの評価は高くなかった。いくらイタリア最強馬といえど、やはりイタリア競馬のレベルを疑問視してのものだろう。ところがいざレースが始まってみると、先行したカンターに対して最後の直線、ゴール前ギリギリのタイミングで追い出したオルテッロがオレアンダーもカンターも抜き去り、一番最初にゴールしたのである。アルプスを越えてやってきたイタリア人たちは歓喜の声でオルテッロを称えたが、デ・モンテルは信じられないという表情のまま、馬場でファンたちにもみくちゃにされた。

 

 このレースには真偽不明のエピソードがある。人気のなかったオルテッロの単勝オッズは結構ついていたらしい。パリのブックメーカーで、ドーチェ(ムッソリーニ)がオルテッロの単勝をしこたま買い込んだという噂もあるというが、果たしてどうだろうか。

 

 こうしてイタリア最強馬から欧州最強馬になったオルテッロは、この年の最後に2歳でも勝利したキウズーラ賞に出走することになった。しかし凱旋門賞での激走の疲れが抜けきらぬ中である。テシオの新鋭2歳のジェラールに一年ぶりの敗北を喫してしまう。(ジェラールは後に伊ダービー馬になる) テジアーニたちはようやく留飲を下げたが、デ・モンテルは翌年、オルテッロをイギリスのコロネーションカップかアスコット・ゴールドカップへ挑戦することを表明する。いよいよ競馬母国へイタリアから挑戦するというのだ。

 

 しかし、アスコットゴールドカップと日程の被るミラノ大賞には出場することはできない。

 この選択は妥当だという意見と、この時フェデリコ・テシオにはカヴァリエーレ・ダルピノという、遅れてきた名馬がいたからだという意見もある。カヴァリエーレ・ダルピノはオルテッロと同い年であるが体質が弱く、オルテッロが華々しく活躍していた頃、まだデビューも覚束ない状態で、3歳の春にようやくデビューしたものの1戦しただけで再び故障を発生して1年間の長期休養を余儀なくされた。カヴァリエーレ・ダルピノは、早熟を好み3歳春には売却するか否かの方針をとるテシオにしては珍しくこだわった馬である。その潜在能力にほれ込み、じっくりと治療と調教した結果、1930年、オルテッロが出走しなかったアンブロジアーノ賞で復帰&勝利したのである。

 

 カヴァリエーレ・ダルピノの次の目標は当然ミラノ大賞である。しかし、オルテッロは早々にイギリス遠征を表明しているので2頭が競うことはない。モンテリーニたちは戦うまでもないと思いつつも、テジアーニたちはイギリスに逃げたことを後悔するだろうと怨嗟の声をあげるのだからティフォシというのは面白い。

 

 6月、イギリスの厩舎で調整を続けていたオルテッロであったが、調教で怪我を負ってしまう。イタリア紙はその様子を「大丈夫だろう」と楽観的だったが、いよいよレースが近づいても回復しないオルテッロを見たデ・モンテルは、このまま帰国することを決断する。(ちなみにこの年のアスコットゴールドカップの勝者はダービー伯爵のボスワース)

 

 元々、この遠征にデ・モンテル本人はあまり乗り気ではなかったらしい。にもかかわらず、ファンたちの期待やイタリアのナショナリズムを背負ったデ・モンテルはオルテッロをイギリスに遠征させたという。それでもファンたちは故障さえなければ勝てたはずだ。いや、むしろ故障していても勝てただろうと言うマスコミの言葉にデ・モンテルはさらに追い詰められてしまう。

 

 怪我の療養に努めるオルテッロとデ・モンテルは次の目標は凱旋門賞連覇を掲げた。その時、テシオのカヴァリエーレ・ダルピノもオルテッロ不在のミラノ大賞を勝利して同じように凱旋門賞挑戦を表明していた。ところが程なくしてカヴァリエーレ・ダルピノの故障が判明。さすがのテシオもこれ以上現役を続けることをあきらめて引退することになる。

 

 対して無事に二度目の凱旋門賞に出走することができたオルテッロとデ・モンテルには、またもやイタリアじゅうからの期待を背負わされてしまう。昨年の凱旋門賞時、デ・モンテルは不安と楽しみを持って挑んだが、今回は不安要素が強い。不良馬場のロンシャン競馬場で二番人気を背負ったオルテッロは、見せ場なく伏兵モトリコの4着と敗れた。その敗戦に対してイタリアからはひどい批判が上がった。調教が悪い。ローテションが悪い。作戦ミス、騎乗ミス、オルテッロの名誉を汚した遠征だったなど、散々な言われように対して、デ・モンテルは何一つ言い訳せず黙ったままだった。

 

 フェデリコ・テシオという人は紳士たる教養のある人物だったが、ファンサービスというものには欠ける人物で、自分の意にそぐわないことには絶対に首を縦に振らない人だった。対してジュゼッペ・デ・モンテルは貴族として民衆のために行動することを是とする人柄だったが、この時ばかりは「テシオ大尉の考え方が正しいのだろう」と弱音を口にしたらしい。

 

 そしてデ・モンテルはオルテッロの引退と翌年からの種牡馬入りを発表した。当初はフランスに売却するという話もあったようだが、無事にイタリアで種牡馬生活をおくることになる。種牡馬オルテッロは大成功を収めるのだが、ムッソリーニとファシズムが跋扈するようになるとユダヤ人の銀行家であったデ・モンテルは、財産もオルテッロも、ミラノの厩舎もすべて手放し国外へ逃げざるをえなかったという悲しい結末を迎えることになる。

 

主な戦績

1928年                  

Premio Cornredo 1

Premio Luino  1

Premio Volta  1

Gran Criterium   1500m  San Siro           2 (Aruntius)

Premio Chiusura   1400m   San Siro           1 Erba

1929年 

Premio della Vittoria         2000m   San Siro              1 Furlo

Derby Italiano                   2400m   Capannelli          1 Mino d’Arezzo

Premio Principe Emanuele Filiberto          2000m   San Siro              1 Furlo

Gran Premio d’Italia         2400m   San Siro              1 Gericault

Premio Principe Amedeo   2600m   Mirafiori              1

Gran Premio di Milano     3000m   San Siro              1 Pinceau

St.Leger Italiano               2800m   San Siro              1 Mino d’Arezzo

 Prix de l’Arc de Triomphe 2400m   Long Champ       1

Premio Chiusura              1400m   San Siro              2(Gerard)

1930年

Premio Adda                     2000m   San Siro              1(Tadolina)

Premio Olona                    2800m   San Siro              1(Tadolina)

Premio Laveno                  2200m San Siro              1(Tadolina)

Prix de l’Arc de Triomphe 2400m   Long Champ       4(Motrico)

 

19戦16勝2着2回4着1回(20戦17勝という説もある)

 

主な産駒

Ugolino da Siena 伊ダービー

Vezzano               伊ダービー 

Moroni                 イタリア大賞

Sirte                    ミラノ大賞典

Zuccarello            ジョッキークラブ大賞

Scire                    伊セントレジャー

Allgau                 独ダービー

Macherio             ミラノ大賞

Nervesa               伊オークス

Torbido                伊ダービー

Minotauro          ブラジルの名種牡馬

 

 

・オルテッロの馬名の由来として、オルタ湖の地名からではないかという説がある。

・オルテッロはイタリアで6度の首位種牡馬になった。

・テシオはオルテッロを種牡馬として三十頭以上の産駒を得た。自ら生産したニコロデラルッカが最多で、それに次ぐ数字。

・1946年、21歳のオルテッロをアメリカのビル・ストメレルが6万ドルで購入して渡米。しかし翌年、繁殖シーズン中に急死。ストメレルは翌年生まれた数頭はオルテッロの仔であると主張したが認められず、失意のままサラブレッド事業から手を引いた。

・オルテッロは多くの優秀な産駒に恵まれたが、直系子孫は1970年代に途絶えた。

 

 

サンシーロにあったデ・モンテルの厩舎は長い間放置されて廃墟だったが、最近リノベーションされて保養施設になった。

一度泊まってみたいけど、廃墟の時もなかなか味わい深かった。