Antonio Canale
父Torbido 母Acquaforte 母の父Blenheim 1946年 イタリア産 栗毛
名前の由来はヴェネチアの風景画家ジョヴァンニ・アントニオ・カナール。父がヴェネチアの画家フランチェスコ・トルビド。母がアクアフォルテ(エッチング技法)という名前なので、連想でヴェネチアの版画家アントニオ・カナールと名付けたのかもしれない。
《競争成績》
2~4歳時にイタリア国内で走り、Gran Premio di Milano 1着、St.Leger Italiano 1着、Gran Premio di Jocke Club 1着(Grifoneと同着)、Premio d’Aprile 1着Derby Italiano 2着、Gran Criterium 3着、Premio Ambrosiano 4着、Criterium Nazionale、Premio Chisura 、Premio Pisa 、Premio Parioliは着外だった模様。主戦騎手はエンリコ・カミーチ。
《種牡馬成績》
1951年からイタリアで種牡馬となり、1962年にはアメリカに輸出された。代表産駒はAltrek (1952 Derby Italiano)、Braque(1954 Derby Italiano テシオ遺作の一頭)、アンヤタ(1966 ボストンメリーの母、ボストンキコウシの祖母)
《1946年生まれのエース》
フェデリコ・テシオにとって王道のローテーションとは、2歳でGran Criterium、Criterium Nazionale、Premio Chisuraを勝って2歳王者になり、3歳はPremio Pisaから始まり、Premio Parioli、Derby Italianoで3歳の頂点に立ち、Gran Premio d’Italiaで外国の3歳馬に勝ち、Gran Premio di Milanoで古馬相手に勝ってイタリア最強馬になるのが理想でした。
しかし、強豪が集うテシオ厩舎の中でもこの黄金のローテーションに挑めるのは毎年一頭だけ。テシオがエースに認めた馬のみ、そのローテーションを与えられ、それ以外の馬や騎手たちは、すべてそのエースの為に動くことになります。それ故にテシオのAntonio Canaleに対する期待は並々ならぬものだったのです。
※秋のSt.Leger ItalianoやGran Premio Jockey Clubは当初それほど重要視していなかった。この出走するだけでも大変で過酷なローテーションを成就したのはテシオ生産生活約60年の間でもNearco、Niccolo dell’Arca、Botticelli、Braqueの4頭だけ。(Braqueは死後なので存命中は3頭。またNearcoとNiccolo dell'Arca、BotticelliとBrqueはそれぞれ兄弟)すべてに出走したものの達成できなかったのはMichelangelo、Navarro、TeneraniそしてAntonio Canale。
《OrtelloとHurry Onの血脈》
Antonio Canaleは1946年生まれですが、種付けされた1945年といえば第二次世界大戦が終結した年です。イタリアではムッソリーニが処刑され、名目上は連合国側として終戦を迎えたものの、その内情は敗戦国に等しいものでした。フェデリコ・テシオ自身も大戦中、ファシスト党の協力者と見なされていたことから、財産や行動に制限されていた時期でもありました。
戦中、戦後の時期、テシオは仕方なく自身で生産した馬を種牡馬として使うという事を行いました。それはテシオの常法である、英国に英ダービー馬を種付けに行くことができなかった為仕方なく始めたことでしたが、思った以上の結果をもたらしました。
テシオが半兄のNearcoよりも愛していたNiccolo dell’Arcaは多くの名馬をもたらし、BelliniはTeneraniを産み出したことにより、戦後Ribotへと繋がりました。Antonio Canaleの父Torbidoも時代がテシオにもたらした種牡馬でした。
Torbido
父Ortello 母Tempesta 母の父Michelangelo 1941年 イタリア産 鹿毛
<競争成績>
2歳~3歳 テシオ夫人リディア名義で走り、Derby Italiano1着、Gran Premio d’Italia 1着など
<種牡馬成績>
イタリア、イギリスで種牡馬になり、当馬Antonio Canaleの他、Mignard(Criterium Nazionale)Balestrina(Gran Premio di Jockey Club)など。Antonio Canaleの最高傑作Braqueがわずか一世代しか遺せなかったこともあり、1970年代には直系はほぼ滅んだ。
Torbidoは決して悪い馬ではありませんでしたが、テシオにとってはそれほど興味深い馬ではなく、様々な理由からリディア・テシオ夫人名義で走りました。もちろん通常であれば種牡馬として使うことは先ずなかったでしょう。テシオは1945年と1946年の2年間だけ種牡馬として使いましたが、その中でAntonio Canale、Mignard、Balestrinaを得ました。
Acquaforte
父Blenheim 母Althea 母の父Hurry On 1936年 イタリア産 鹿毛
<競争成績>
イタリアで走り、Premio Piacenza1着、Premio Lagnano1着、Premio Principe Amedeo 1着、 Gran Premio di Milano3着他。ミラノ大賞まで無敗だったがクラシックには縁がなかった模様。
<繁殖成績>
1940年から繁殖生活に入りAntonio Canaleの他に、Oaks d’Italia 2着のAristareta(父Niccolo dell’Arca)はイタリア牝馬二冠のAngela Rucellaiを産んだ。そして細々ではあるが現代までその牝系は続いていて、福島2歳ステークスを勝ちながらも早世したルクシオン。短距離ローカルの常連だったレッドラウダらがいる。
Acquaforteはとても美しい容姿をしていたそうで、テシオはAlthea産駒の中でも特に気に入っていました。しかしクラシックは同期のDagherotipiaに任せ、長距離路線を進み無敗でPremio Peincipe Amedeoに勝利しましたがGran Premio di MilanoでVezzano(後にAntonio CanaleのライバルとなるGrifoneの父)に敗れると無敗記録も途絶えました。
Acquaforteは第二次世界大戦の戦局が思わしくない1940年代に繁殖生活に入ったこともあり、テシオは英国に種付けに送り出すことができませんでした。そして1946年、Torbidoを種付けして三番目の子として産まれたのがAntonio Canaleでした。
Torbidoはテシオが寵愛したライバル、デ・モンテルのOrtelloの子です。またテシオが生涯に渡り拘ったHurry Onの血が母方Acquaforteに流れており、大きなスライドを持つ歩様はテシオに大きな期待を持たせ1946年生まれ世代のエースとなりました。
《のんびりとゆっくりと》
しかし、2歳のAntonio Canaleはまったくの期待外れでした。Gran Criteriumは僚友Mignardo(同じTorbido産駒でもある)の3着、Premio Chiusuraは先輩のAstolfinaに敗北。Criterium Nazionale(勝馬不明)も敗北しました。
Antonio Canaleを擁護するのならば、彼はテシオが好んだ早熟で完成の早い馬ではなかったからだと思います。重厚な体つき、長距離を得意とする体形は総じて晩成型になるものです。しかしテシオはこれまでの経験から、その能力は見ぬいてもその成長を待てるほど己の信念や考え方を変える人物ではありませんでした。
2歳の早い時期にデビューすると、3歳の夏の終わりまで詰めて詰めて走らせなければ気が済まないのです。それもAntonio Canaleが丈夫で体力のある馬でしたから、余計にハードな調教とスケジュールを組んだのです。しかし、結果には結びつきません。
それでもAntonio Canaleは翌年のDerby Italianoの有力候補でした。フェデリコ・テシオが目をかけているというだけで人気は上がるでしょうし、何よりも疾走するその姿がこれまでの名馬に劣らない大物感に溢れていたのです。
そして1949年5月8日、Antonio Canaleは翌週に控えるDerby Italianoの為の試走としてPremio Ambrosianoに出走します。ここでは僚友のErula(隻眼だったらしい)という牝馬をラピッドにして、最後の直線で追い抜いて勝つ作戦でしたが、Antonio Canaleの手ごたえは悪く、Erulaがそのまま逃げ切ってしまったのです。
この敗戦はさすがのテシオもファンたちも失望しました。即座にテシオはDerby Italianoへの出走取消を発表。一転、Derby ItalianoはPremio Parioliを勝利したZagaroloが最有力候補になりました。しかしファンたちに熱望されたのか、戦後の資金難の折、少しでも賞金が欲しかったのか、テシオはAntonio CanaleのDerby Italianoへの出走を決めました。
《Derby Italiano》
La Stampa 1949年5月16日号より
Derby Italiano (Roma Capannelle 2,400m)
<出走馬>
Razza del Soldoからは、Murghab (58 Parravani) と Samba (牝56 P. Caprioli) 、 Razza di RozzanoからZagarolo (58 Renzoni) とZobliu? (58 Marchetti)、Scuderia MantovaからはVal Sandro (58 Pacifici)、 Scuderia MianiからGolfo (Gabrielli)、Scuderia San Giorgio のCalmo (58 Fancera) 、Scuderia AnieneからPort Arthur (58 Celli) そしてRazza Dormello-OlgiataのAntonio Canale (58 Camici) の9頭。
大勢の観客が見守る中、カパネッレ競馬場で開催された第66回Derby Italianoでは、Scuderia MianiのGolfoが予想外の勝利を収めました。 レースでは交互のフェーズがありスタートではZlotinが集団から抜け出し、すぐにチームメイトのZagaroloが後ろから続きました。Antonio Canaleはその集団を見るような位置で我慢しています。最後のコーナーに近づいた時、エンリコ・カミーチ騎手が合図を送るとAntonio Canaleは素晴らしい反応をみせ先頭に立っていたZagaroloに近づき二頭のマッチレースの様相を呈していました。しかし、コーナーを抜け最後の直線に入った時、背後からGolfoが二頭を追い抜いてそのままゴール板を先頭で駆け抜けていったのです。まさかの敗戦、そして見事な逆転勝利です。
1着Golfo 2着Antonio Canale 3着Port Arthur 4着Murghab
取消を撤回して挑んだDerby Italianoでしたが、まったくのノーマークだったGolfoに敗北。またしてもAntonio Canaleはテシオとファンの期待を裏切る形になってしましました。このままでは秋に予定しているパリ、ロンシャン競馬場での凱旋門賞への出走も危ぶまれ、また誰も期待しないでしょう。
しかし、幸いテシオもイタリアの競馬ファンもこのレースさえ勝てばナットクできるというレースが当時のイタリアにはありました。それは6月にミラノ、サンシーロ競馬場で行われるGran Premio di Milano(San Siro 3,000m)でした。
《初戴冠》
第26回 Gran Premio di Milano
1949年6月19日 Milano San Siro 3,000m
Antonio Canaleが優勝賞金600万リラを獲得
出走馬は全部で17頭。Premio Parioliの勝ち馬Zagarolo、Derby ItalianoとGran Premio d’Italia勝馬のGolfo、フランスからはDiamant VIIが遠征。レースはAntonio Canaleたち3歳馬とGrifoneら古馬との対決となりましたが、このミラノ大賞は斤量差もあり3歳が有利な年が多いです。Antonio Canaleは50㎏と1/2㎏で出走するのに対して、Grifoneは61㎏といった具合です。それゆえに突出した古馬のいない年は3歳馬が有利になる場合が多いのです。
晩成型の大器はようやく開花したのでしょうか。はたまたこの斤量差が良かったのか、何もかもが上手くハマったAntonio Canaleは、8馬身もの大差をつけてついに王者に戴冠したのです。そして順調に夏を越えたAntonio Canaleはさらに逞しくなり、1歳年上のTrevisanaに代わりようやく厩舎のエースになったのです。
<結果>
1,Antonio Canale(E.Camici):Razza Dormello-Olgiata 3:11:1/5
2,Murghab:Razza del Soldo
3,Diamant VII:J Frictelle
4,Port Arthur:Scuderia Aniene
5,Val Sandro:Scuderia Mantova
6,Elba:Scuderia Ronchetto
7,Grifone他着外
《凱旋門賞への挑戦》
国内外の権威あるレースを制覇してきたテシオですが、どうしても勝つことができないのがフランス、パリ、ロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞でした。まだパリ大賞の方が賞金も権威があった頃はScopasで5位になったことはありました。しかし、今や賞金も権威も上がり、パリ大賞を越えて世界の強豪が集うようになった凱旋門賞を制覇するのは易々とできることではありません。フェデリコ・テシオだからこそ、思いで作りだけで大金を使いパリへ行くことなど出来ないのです。
昨年、大きな自信を携えて挑んだAstolfinaとTrevisanaでは大惨敗を喫しました。しかし挑戦を諦める気は毛頭ありません。テシオはAntonio Canaleに今度こそ、と夢を託します。その最終試験となる舞台はGran Premio di Jockey Club(San Siro 2,400m)です。ここに勝って、翌週ロンシャンへ向かうのです。(この当時、大レースといえど今でいう連闘は当たり前だった模様。1949年10月2日ジョッキークラブ大賞→10月9日凱旋門賞)
しかし。このレースの結果に対してLa Stampaは大変屈辱的な記事でテシオとAntonio Canaleを評することになりました。
《敗北という同着》
La Stampa 10月
『驚くべき写真判定』
Antonio CanaleもZagaroloもパリの凱旋門賞へは行きません。土曜日からの雨により、難しい馬場となったサンシーロ競馬場で行われたジョッキークラブ大賞の結果により、フェデリコ・テシオはAntonio Canaleの凱旋門賞への出走を取りやめました。レースは残り200mの地点で僚友のTrevisanaを楽に追い抜いたAntonio Canaleがそのまま2馬身近い差をつけて確実に勝利するように思われましたが、Grifoneに鞭が入るとその差を縮めて、ゴール前ではAntonio Canaleを力強く追い抜いたかのように見えましたが写真判定の結果は同着でした。
結果
1.Grifone 2:36:00
1.Antonio Canale(同着)
3.Trevisana
4.Zagarolo
※現代の写真技術ではその着差は明確になったかもしれません。
『パリへの道は閉ざされた』
ジョッキークラブ大賞でGrifoneとAntonio Canaleが同着になったことに驚きはありません。際どいゴール前の写真に対して、私たちは冷静な判断をしなければなりません。サンシーロ競馬場での「引き分け」はドルメロ・オルジアータのサラブレッドが過大評価されていたことを証明しています。テシオはレースに至るまでにAntonio Canaleを酷使しすぎたようで、調子の最大降下時にレース当日を迎えていました。当日、前日からの雨によりサンシーロの馬場は大変重くなっていました。しかし、重馬場であってもAntonio Canaleは勝たなければいけません。なぜならば秋、雨季のパリで行われる凱旋門賞に、堅く走りやすい馬場の日を期待することは愚かとしか言いようがないからです。(欧州は秋、冬に雨が多い。現在でも泥んこの凱旋門賞は珍しくない)もしAntonio Canaleが本当の強者であったならば、重馬場が得意な古馬のGrifoneが相手であったとしてもこのような出し抜けを喰らうことはなかったでしょう。それもGrifoneは決してトップクラスの馬ではないのです。また、この程度の重馬場であれば、いつものAntonio Canaleなら問題なかったのではないでしょうか。そして同厩舎のTrevisanaは、ライバルのZagaroloを弱体化させ、Antonio Canaleを有利にするために動くはずでしたが、逆にGrifoneのアシストするような挙動になってしまいました。かろうじて同着になりましたが、Antonio Canaleが2着になるという決着もありえる様相だったのです。私は勝利したGrifoneの勝利を否定するつもりはありませんが、ベルリンゲル侯爵の6歳馬に勝てない馬をパリに送ることを諦めたテシオの考えは、間違っていないと考えます。
フェデリコ・テシオへの批判はあまり見かけないので、なかなか鮮烈で辛らつでした。記者はAntonio Canaleという馬は過大評価された偶像であると言い、フェデリコ・テシオの過密ローテーション、負担の大きい調教も批判しました。またジョッキークラブ大賞当日が雨による重馬場で行われ、重馬場を得意とするGrifoneに敗れたとしつつも、これくらいの馬と馬場を克服できなければ、とても雨の凱旋門賞に勝つことなどできないと評価したのです。
果たしてテシオはこの記事を読んでどう思ったのでしょうか。テシオは重馬場を敗北の言い訳にするような人物ではありません。Antonio Canaleを自信を持って送り出し、名手エンリコ・カミーチも満足のいく騎乗をしたことでしょう。それに同着とはいえ負けたわけではないのです。しかし何かを悟ったテシオは凱旋門賞の出場を取消。今度は撤回することはありませんでした。
※70年以上前から、凱旋門賞を勝つには、重馬場を克服して当然。パンパンの良馬場を期待するなど愚かと考えていたのはなかなか感慨深いです。欧州と日本の芝は、今も昔も違うでしょうけど、泥んこの馬場をガンガン進んでいける馬でないと凱旋門賞を勝つのは難しいのですね……。ちなみにRibotが勝った凱旋門賞は1955年は重、1956年は不良だったようです。
そしてAntonio Canaleは4歳も走ったようですが、もはや目立った成績は見つけられませんでした。テシオの興味はもう他の馬に移っていたのかもしれません。もしテシオが晩成型の馬を信じ、Antonio Canaleの4歳、5歳を見守ることができたのならば、違う未来があったかもしれません。1950年、Antonio Canaleは4歳で引退。翌年からイタリアで種牡馬として第二の馬生を生きることになりました。
テシオを散々翻弄してきたAntonio Canaleですが、まだ種牡馬としての可能性をテシオは見限っていませんでした。英国へ渡航して種付けができるようになった1953年、NimbusやOcean Swell、Rockfellaといった英国の種牡馬を使用する中、3頭以上Antonio Canaleを種付けしました。
そして1954年。テシオが亡くなる直前、ドルメロ・オルジアータ牧場にBuonamicaを母として産まれたのがBraqueでした。テシオは生まれたばかりの仔馬を見てBraqueと名付け、それがテシオが名付けた最後の馬になったそうです。
《その他の主な産駒》
1952年生まれのAltrekはDerby Italianoに勝利。1962年生まれのMarco Viscontiは名手レスター・ピゴット騎乗でミラノ大賞、またジョッキークラブ大賞にも勝ちました。1962年、アメリカに輸出されたAntonio Canaleはさほど有名な馬を輩出することはできませんでしたが、Swapsなどで有名なレックス・エルズワースの元で生まれたAnyata(1966年、母Yata、母父Yatasto)は1973年日本に輸入され、ボストンメリーを産みアンバーシャダイやホウヨウボーイたちと競いました。その息子ボストンキコウシ(父ノーザンテースト)は重賞には勝利できませんでしたが、長距離路線で活躍しました。
Antonio Canaleの直系はもう途絶えてしまいましたが、母系に残り米国や豪州などに残っているようです。
Antonio Canaleは、今でいう晩成型のサラブレッドだったのかもしれません。無理に2歳戦に出さず、ダービーも諦めて古馬になってからの活躍を目標にしていれば、もう少し違う競走馬生活になっていたのかもしれません。テシオは没する1954年まで、あと数回同じようなローテーションで凱旋門賞に挑みます。しかし、その結果は歴史の通りです。またいつかそれぞれの名馬とともに調べたいと思います。
戦後Gran Premio di Jockey Clubに勝ち、凱旋門賞へ挑戦しようとしたドルメロの馬たち。
1947 Tenerani(断念理由不明)
1948 Astolfina(出走するも惨敗)
1949 Antonio Canale(同着で諦める)
1950 Balestrina(未出走。本来はTommaso Guidiを試していた)
1951 Daumier(出発直前に脚の故障が発覚。おそらくRibot以前で一番勝つ可能性があった)
1952 Caran D’Ache(断念理由不明)
1955 Ribot (優勝)
